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長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

「承認欲求」をめぐる混乱はなぜ生じたのか?:「承認」概念の三つの起源

「承認」の起源という問題

以前に、日本のインターネットでよく言及される「承認欲求」という言葉がかなり多義的に用いられているということを、実際の使用例を見ながら論じました。

上の記事では実際のネットスラングとしての使用例だけをまとめましたが、「承認」という言葉はネットでの用法にとどまらない背景を背負っています。そこで、今回は少し切り口を変えて、「承認」という概念の出自から、この概念がなぜこんなにも混乱した仕方で用いられているのかを考えてみます。

 さて、「承認」という言葉の出自はどこに求められるでしょうか。現代の日本で最もよく知られているのはA. マズローが用いたesteemという概念でしょう。「承認」についてまとまった連載記事を最近投稿していた「シロクマの屑籠」のid:p_shirokuma氏は、次のように書いています。

経緯を振り返ってみると、マズローからの一人歩きが無残だなぁと思う一方で、なるほど、承認欲求という言葉はバズワードになるべくバズワードになったんだな、という印象も禁じえない。(ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史 - シロクマの屑籠

ここでシロクマ氏は、マズローこそが「承認」概念の正当な出自であると断定した上で、「マズローからの一人歩きが無残」と結論しているように思えます。

 しかし、この「マズローこそが『承認』概念の正当な出自である」という認識は誤りです。「承認」という言葉は、マズローだけでない、様々な理論を背負って使われています。したがって、マズローだけをひっくり返してみても、なぜ「承認」概念がこんなにも様々な仕方で使われてしまっているのかを明らかにすることはできません。

 このあたりのことを明らかにするべく少し調べてみたのが今回の記事です。ちょっと長いので、結論を先においておきます。

  • 日本語の「承認」や「承認欲求」という語は、政治哲学の術語recognition(英)=Anerkennung(独)、マズローの術語esteem、社会心理学の術語need for approvalの三つの語の訳語として、それぞれ独立に導入されている。
  • 近年では、これらの独立の概念が混同され、「人として認められること」「人として持つ自然な欲求」「自尊心を満たすために実際以上に自分をよく見せようとすること」という三つの意味を「承認」の語が担わされている。

 前回の私の記事では「承認という語には人によっていろいろな意味が込められているので危険」という結論が得られました。これに対し、今回の記事は、なぜこんな悲惨な状況になってしまったのか? を解明するものとなっています。それでは、翻訳の問題からスタートして、混乱の背景を追いかけてみましょう。

「承認(欲求)」は英語では三つに分かれる

この概念がそもそもどこから来ているのか? という問題について、インターネットで手軽に読めるものとして、以下のTogetterまとめがあります。

このまとめを読んでいくと、「承認」という言葉が、英語では全く異なる二つの言葉の訳語として用いられている、ということが分かります。その二つとは、regocnitionと(self-)esteemです。前者は政治哲学者C. テイラー、後者は心理学者A. マズローの術語として紹介されています。また、心理学の事典で確認してみたところ、need for approvalという社会心理学の概念も「承認欲求」と呼ばれているようです。

 ここから分かるのは、不幸にも、意味も出自も全く異なる三つの言葉に、同じ「承認」という訳語が当てられてしまった、ということです。 この不幸の上に、現代日本における「承認欲求」論の混乱も生じているように思えます。

 以下では、これら二つの術語の背景と意味についてざっくりまとめてみたいと思います。

recognition:政治哲学における「承認」

まず、recognitionから考えます。上ではTogetter記事にしたがって、さしあたりC. テイラーに帰属させておきましたが、recognition概念の大元として挙げるべきは何といってもドイツ観念論の代表的哲学者、ヘーゲルでしょう。ヘーゲルは『精神現象学』や『法の哲学』の中でAnerkennungについて論じています。そして彼のAnerkennungというドイツ語の術語(これも日本語では「承認」と訳されます)の英訳語として用いられてきたのが、recognitionという単語です*1

 このドイツ観念論でのAnerkennungという概念が、現代の政治哲学で再び脚光を浴びることになります。先のまとめで挙がっているカナダのチャールズ・テイラー(『マルチカルチュラリズム』等)は、英語圏における最重要人物と言ってよいでしょう。

そのほかドイツ語圏で、フランクフルト学派のJ. ハーバーマスとA. ホネットの名前を挙げることができます。ハーバーマスについては『イデオロギーとしての技術と科学』で展開されたヘーゲルのAnerkennung論があり、これは大著『コミュニケイション的行為の理論』の基礎となっています。

またホネットはハーバーマスの「コミュニケーション」概念では捉え切れないAnerkennungという概念そのものに光を当てようとする論客で、その名も『承認をめぐる闘争』が彼の主著となっています。

また、TogetterにはN. フレイザーの名前も挙がっていますが、彼女についてはホネットとの間で繰り広げられた『再分配か承認か?』という論争を無視することはできないでしょう。

 これだけの論者が少しずつ異なる議論を展開しているので、能力的にも時間的にも詳しく論じることはできないのですが、Anerkennung=recognitionという概念の核心だけを、ざっくり取り出しておきましょう。それは、「人が人であることの基礎にAnerkennung=recognitionがある」というものです。この意味で、recognitionという概念は、単なる欲求以上のものだと言えるのではないかと思います。

esteem:マズロー心理学における「承認」

esteemについては、マズローの主著『人間性の心理学』を出自とする概念だとされています。

マズローへの影響としては、彼の師A. アドラーに加えて、E. フロムやP. ティリッヒからの影響が考えられるようですが、「承認」と訳される術語としてのesteem概念はrecognition概念ほどの歴史はなく、基本的にはマズローに帰属する概念として考えてよいでしょう。特にインターネットでは、「承認」の語をマズローの名と結びつけて理解するのは主流となっています。多くの人の目に触れるところでは、Wikipediaの「承認欲求」の項はマズローに言及しています(承認欲求 - Wikipedia*2。また、この記事の初めに見たとおり、ブロガーのシロクマ氏が展開した「承認欲求」についての議論も、マズローに依拠したものでした。

 このマズローのesteem概念ですが、少し調べると、おもしろいことがわかります。それは、心理学において、「承認」はesteemという言葉に対応する定訳ではない、ということです。たとえば、丸善から出ている『応用心理学事典』(日本応用心理学会編、2007年)では、マズローのesteemに「自己評価・自己尊重」という訳語を当てています(板津裕己「自己実現の欲求」、p. 64)。また、原典を確認できなかったのですが、シロクマ氏の引用から推測すると、マズローの著書『人間性の心理学』の邦訳でも、「自尊心」という訳語が当てられているようです。(承認欲求そのものを叩いている人は「残念」 - シロクマの屑籠)。また、マズローを離れた文脈では、「自尊感情」という訳語が当てられることも多いようです。このことは、「承認」という言葉と最もよく結び付けられるマズローのesteem概念は、学問的には「承認」と訳されることが最も少ない語である、という皮肉な事態を示しています。

 とはいえ、「承認」という語がインターネットでの全くの創作というわけではありません。たとえば浦上昌則・神谷俊次・中村和彦編著『心理学』第2版(ナカニシヤ出版)では、「承認・自尊」という訳語が当てられています。インターネットで「承認」という訳語がとりわけ流通しているのは、こうした心理学の教科書や高校の倫理の教科書、また一部のビジネス書などで「承認」の訳語が当てられたことと、この語自体が流行したこととの相乗効果で説明できるでしょう。

approval:社会心理学における「承認」

この記事を書き始めた段階では、recognitionとesteemがネットスラングとしての「承認(欲求)」の源泉だろうと考えていました。しかし、調べてみると、これらのほかに更にもう一つ、「承認欲求」と訳される術語があることがわかりました。それは、need for approvalという概念です。以下、事典から引用します。

他者に自分の存在を認めてもらいたい,あるいは自分の考え方を受け入れてもらいたいという欲求をさす。〔…〕承認欲求の強い人は同調性が高いこと,説得されやすいこと,自己評価が低いことなどが知られている。また、まわりの人からよく見られたいために、印象操作を多く行うと考えられている。(吉川肇子「承認欲求」、中島義明ほか編、『心理学事典』、有斐閣、1999年、p. 417)

この「承認欲求」は、例えば被験者の承認欲求の度合いに応じてアンケートの結果を割り引いて捉える、というような目的で用いられるもののようです。

 同じ心理学という分野で用いられている言葉ではありますが、このapprovalとマズローのesteemは全く異なる概念だと言ってよいでしょう。マズローのesteem概念「行動に現れない心理に注目しよう!」というモチベーションからスタートして導入されていたのに対して、need for approvalという概念は、アンケートでの回答の歪みという特定の行動の指標として導入されているからです。

「承認」の三つの源泉と現代日本の「承認」

ここまで、「承認」という訳語が当てられる三つの概念について紹介してきました。日本語の「承認」という言葉は、これらの三つの言葉を融通無碍に行き来する仕方で用いられているように感じられてなりません。

 そもそも人として認められることが承認だ、という使い方をすればそれは政治哲学的なrecognitionに近い意味で用いられています。たとえば前回の記事で見たdankogai氏の用法はこれに近いように思えます。

 他方、人間として生まれた以上承認を求めるのは悪いことじゃないだろう、という論旨で承認が語られる場合には、マズロー的なesteemに近い意味で用いられています。最近のシロクマ氏の連載は、明示的にマズローに言及した上で、この意味で「承認」の語を用いたものでした。

 また、自己評価の低さの裏返しで自分を実際以上によく見せようとしている、という否定的なニュアンスは、need for approvalに近い意味で理解した時に派生してくるのではないかと思います。宮台真司氏が初期に用いていた「承認」という言葉は、この意味を念頭に置いたものであったように思えます。

 以上で、日本語の「承認」という言葉の用法の混乱とその背景についてご理解いただけたのではないかと思います。このあたりの混乱はそろそろ解いておかないと、実害も出て来そうに思えます。例えばビジネスの文脈で「承認」的なことを扱う場合には、政治哲学的な意味は問題にならないでしょう。しかし、マズロー的なesteemであれば、部下の士気を高めて組織マネジメントに活かす、という文脈では有効になることもあるでしょう。これに加えて、マーケティングにおいて顧客の認知バイアスを考慮するといった場合には、need for approvalの意味での顧客の「承認欲求」が重要になるでしょう。

 ビジネスについての実例を考えると、「承認」をめぐる混乱は、「実用に役立てば細かい意味なんてだいたいでいい」と言えない段階にまで来ているように思えます。ここで意味を整理して理解しておくことは、実用面でも有益なのではないでしょうか。

*1:より詳しくはヘーゲルのAnerkennungという概念はフィヒテから借用したものだという話もあるようなので、「大元」という言葉は少し語弊があります。しかし現代政治学の文脈でrecognitionという言葉が用いられるとき、真っ先に思い浮かべられているのがヘーゲルの名前であることは間違いありません。

*2:出典を明示しない、レポートに使っちゃいけないたぐいの記事ですが。

引っ越しするとき参考にしたサイト10選

最近引っ越しを致しまして、そりゃあもう大変だったんですけれども。こういう慣れないことするときこそ頼りにしたいのがインターネットです。せっかくなので、参考になったサイトをまとめて共有しておきたいと思います。なんとなく分類して、一言コメントを付けつつ紹介しておきます。

網羅的に情報が載っているサイト


引越し 手続き&引越し 準備 手順 ガイド

網羅的にいろいろな情報が載っている。引っ越しを考え始めた段階で、一度目を通しておきたい。ただ、あまり情報の検索性が高くないので、ギリギリで必要な情報だけ知りたい! という場合にはちょっと不便。


引越しの手続き・手順をダンドリチェックリストで確認しよう | 引越しの費用比較や見積もりは【SUUMO引越し見積もり】

言わずと知れたリクルート、SUUMOが提供するチェックリスト。ここには基本的に物件を決めたあと、引っ越しまでの手続きがまとめられている。こうしたリストのサイトはいくつかあるが、これが一番見やすく感じた。ただし、不動産探しの段階の情報は載っていない。

不動産探しの前に


効率的な賃貸物件の探し方 | nanapi

自分で相場をだいたいチェックしたあと、メールで条件を提示して物件を紹介してもらって、さらにその対応で不動産屋さんを選ぶ、というやり方はだいたいそのまま踏襲した。おかげで、好感の持てる不動産屋さんにたどり着くことができました。


部屋探し,不動産屋が言えない賃貸部屋探しのテクニックをあなたに

物件探しを始める前に、読み物として読んでおくサイト。ここでのテクニックがめっちゃ使えた! という感じではなかったが、基礎知識として知っておくとよいことが載っている。

引っ越し会社を決める前に


引っ越し一括見積りサイトが単なる個人情報転送サイトだった話 - インターネットの備忘録

われらがアルファブロガーはせさんの記事。「引っ越し」とかのキーワードでぐぐると、ほぼ全てのサイトが引っ越しの一括見積を薦めてくる。そこで実際に見積もりを取ってしまうと大変なことになることがあるよ、というお話。まずはこれを読んで警戒心を持つべし。


引越見積術 業者にそれ言っちゃだめ!

「ぺこり。」とか「ハイッ!」とか、やたらテンションの高い文体がいちいちイラッと来るが、我慢して読んでいくと質の高い情報が得られるサイト。引越会社を探し始める前に、読み物として読んでおくと良い。とくに、「大手・中堅・地元の小規模の3パターン見積をとるが非常に有効」というアドバイスは他のサイトにはなく、本当に役立った。この手のサイトには珍しく「一括見積もり」に否定的なのも好感。


引越し段取り術

実際の梱包作業で一番役立ったのがこのサイト。項目ごとに詳しく具体的な注意が書かれている。写真等も充実していてわかりやすい。

新居のレイアウトを考えよう(一人暮らし限定)

「一人暮らし レイアウト」とかで検索すると、非現実的なかっこいいへやばかりがヒットします。家ではPCで遊ぶか本を読むかテレビ、という私の生活スタイルに合うものがなかなか見つかってくれません。それでいろいろワードを変えつつ検索して見つけたのが以下の三つのサイト。

どれも言っていることは同じなのですが、とても参考になりました。自分が学生のときに知っておきたかったくらい。とりあえずこれを鵜呑みにして机を壁付けしない配置にしてみましたが、いまのところ良い感じです。

まとめ

以上、10のサイトを紹介してみました。
「もっとこういうとこ見るべき」「これも見てないのか情弱め」みたいなコメントがありましたら、次回の引っ越しの時に参考にしたいので是非お寄せ下さい。

ホッテントリで振り返る、「承認欲求」論の歴史(06~08年)

はじめに

読んでて、そもそもどういう「承認欲求」のことを言っているのかよくわからないし、それを夢とか自己愛とかとアクロバティックに繋げられてもなんとも言いがたい、というのが正直な感想でした。ういにゃんさんのツイートを受けて書かれたんじゃないかなと邪推しておるのですが、具体的な場面に沿って確認してみないとうまくあてはまるかどうかわからないな、と。

それはそれとして、じゃあ「承認」という言葉について、どんなふうに遣われてきたのか、そろそろまとめがあってもいいんじゃないかなと思って調べてみました*1。調査歩法として、「承認欲求」ではてなブックマーク検索して、100ブクマ以上の記事を眺めつつ、主観も交えながら目星をつけて、周辺の記事をたどってまとめました。なぜ08年までかというと、黎明期が見れて面白いというのと、単純に古いほうからまとめていったら08年で力尽きたからです*2。読む方もたぶんこれくらいが限界だろうなと考えました。余裕があったら10年以後も書いてみたくはあるのですが、とりあえず「ゼロ年代編」ということで。

本論はちょっとダラダラした考察になってしまうので、はじめに要点だけまとめておきます。

  • 「承認欲求」がホッテントリに初登場するのは06年。初めは「非モテ」との関わりで論じられていた。
  • 現在と同じ用法が登場するのは07年。
  • 「承認」の語は、案の定というべきか、「人と交流する」「アイデンティティを認める」「社会的に高い評価を受ける」「愛される」くらいのニュアンスで多義的に用いられている。

それでは以下、メモ書きふうになってしまいましたが、時系列でまとめてみます。

「承認欲求」の登場(06年)

初めて「承認欲求」に関わるホッテントリが登場するのが06年。当時盛んだった「非モテ」に関する議論と結びつけながら論じられているのが特徴です。特に宮台氏の議論は、「男性」のみにあてはまるとされていて、近年の濫用される「承認」とは趣が異なっています。しかしながら、前者の記事では「肯定的な評価」、後者では「ありのままを認める」という、現在の用法につながる二つの核は既に登場しています。以下、リンクと適宜引用を。

宮:生身の人間関係には全体性があるの。たとえば性格や振る舞いにも肯定面と否定面とが表裏一体あって、それらが合わさって人格になってる。人間関係もそうで、不愉快なもの、不幸なもの…全てを含めて初めて現実のドラマが成り立つ。悲劇がドラマの不可欠の部品だと理解することが、全体性に開かれた態度なの。全体性を踏まえて理想を目指すのが本来あるべき形だよ。ところが萌えにおける恋愛は全体性と何のつながりもない。「理想のコならこんな僕でも認めてくれる」って、現実にあり得ない「承認幻想」なの。
ミ:「こんな僕でも」ってなんだかエヴァンゲリオンっぽいにゃあ。
宮:その通り。遡ると、73〜75年頃に流行した、乙女ちっくと呼ばれる少女漫画がルーツだね。性愛が急に自由になってどうしていいか分からなくなったコが「乙女ちっく」にすがった。でも、女のコが性愛に慣れた76年以降は、「こんなあたしでも…」という承認幻想は幼児向けだけになったの。この性別を入れ替えたのがエヴァ。ところが女のコは3年で承認幻想から卒業したのに、男のコは10年しても卒業しない。幼児向けの紋切り型を追求し続けて、現実の女のコを「理想と違う」と批判するわけ。

宮:ちょっと頭を切り換えりゃ生身の女のコと物欲ゲームじゃない別のゲームができるのに。具体的にはね、女のコは理解を求めてるから、理解してあげる力を持てばいいだけさ。理解する度量をつけるには、承認欲求を取り下げる必要がある。それができないから萌えが増えるの。とにかく昨今は、承認を求める男のコと、理解を求める女のコとの、ミスマッチ。男のコの幼児的な承認欲求は、成育環境を変えない限り、収まらないだろうな。

有村悠ニコニコ動画ごときで満たされるカジュアルな承認欲求など要らぬ 」(07年)

07年12月に「ニコニコ動画ごときで満たされるカジュアルな承認欲求など要らぬ」という有村悠さんの記事があったようで、それをめぐって熱を帯びた議論がなされています。「非モテ」との関係はあるものの曖昧になり、現在と同じような使い方がなされていると言ってよさそうです。現在では削除されていて確認できませんが、承認関連のホッテントリ全体を見た時圧倒的多数の記事が含まれていたシロクマさんがここで登場してきていることからも、ここでの「承認」概念が現在に直結していることが伺える。

もう少し細かく見ていくと、シロクマさんの記事では、「承認欲求がない」ということと「対人関係が必要ない」ということを重ねて論じた箇所があります。ここでは「他者との交流」と「承認」がほぼ同義に用いられています。しかし同じ記事に、「職場や社会で承認欲求を満たしていこうというエネルギーが本人を飛躍させていく」という表現もあります。こちらでは社会的な評価のようなものを指して「承認」と言われているのではないかと思います。また小飼弾さんは「私を私として認める」という意味で用いています。つまりこの時点ですでに、「承認」という言葉の意味内容は、現在と同様の曖昧な様相を呈しています。

もう一つ、興味深いのは、「承認欲求」という言葉いすでにネガティブなニュアンスが含まれていることです。削除されていて確認不可能ですが、今読める記事から推定するに、ここでの有村さんの記事の時点で、「承認欲求」がマイナスのものとして捉えられていたようです。「いつの間にか罵倒語になった」というよりは、(すくなくともはてな界隈では)はじめからマイナスイメージを伴った語として広まっていたようです。

y_arimさんとは正反対っぽいですが、「人と人との間で生きているのが私達で、一つ一つの営為には他人からの承認に関する執着が幾らかなりとも埋もれているのが人間だ」、と私はいつも考えています。そして実際、承認に関連した執着を滅却しきった人を、私はあんまりみたことがありません*1し、仮にそんな人がいたとしたら、きっと人のあまりいない所に隠遁しているんじゃないかな、と思います。少なくとも沢山の人の目に触れるインターネット空間で言及活動に精を出す、ということは無さそうです。本当に承認欲求が滅却出来ちゃった人ならば、何事にも言及せず、対人関係も必要とせず、生き仏のような境地に安んじるのではないでしょうか。

承認欲求が極端に強くて捨てハンにちょっとdisられただけでもスルーできない人もあれば、身の回りの人に日常的に承認されているが故に、幾らネット上でdisられてもへっちゃらという人もいます。またネトゲ廃人ネトゲの世界だけで承認欲求を満たすようでは社会適応が大きく揺らいでしまうでしょうが、ITベンチャーの職場で頭角を現していく人などは、職場や社会で承認欲求を満たしていこうというエネルギーが本人を飛躍させていくということもあるでしょう。コンテンツクリエイターの人達なども、創作へのエネルギーの一部が承認欲求に由来していたり、ファンレターが次の作品への駆動力になったりということはあるんじゃないでしょうか。

ニコニコ動画は、承認欲求、すなわち「私を私として認めろ」という場としては最低とは言わないが、かなり非効率な場だ。「私を私として」認めるためには、「私でない」ものが「私」とくっきり別れてなければならないが、ニコニコ動画では、その動画が誰のものかすらつまびらかではない。

Thir「非承認型社会「日本」へようこそ」(08年)

08年6月、「非承認型社会「日本」へようこそ」という、爆発的な人気を博したThirさんの記事(削除済み)があり、これを受けて記事が量産されています。Thirさんは以下のように「承認」を定義していたようです(元記事が消えているので、やむなく小飼弾さんの記事より孫引きした。)。

ここでいう「承認」とは、自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められることを指す。自らの物語・生き様が他者のものとして回収・吸収されることなく他者のそれと連結され、社会において一つの存在として認められることと同義である。

これを受けて批判したり、なんとなく自分なりに解釈したりしながら、思い思いの議論がなされている、というのが、このときの状況です。シロクマさんはここでマズローに言及していますが、実際には07年の時点と同じ多義的な仕方で「承認」の語を用いているように思えます。

私が言う「承認」は、ここまで「大げさ」ではない。「他の誰とも代替不可能な存在として」という付帯条件は抜きに「認めた」のであれば「承認」である。とはいえ、いちいち「thir的承認」というのも「弾的承認」というのも面倒なので、ここは私が譲って、「弾的承認」は「接続」(link)と言い直すことにする。

現代日本が非承認型社会なのか、だいたい社会が承認を担保してくれることを期待してる奴ってキモくね、とか思うけど。承認って妙にネットワーク効果があるよね。誰かから認められ、そういう評判があると他の誰かからも認められやすいし、誰かから認められたという自信に裏打ちされた行動が、他からの承認を勝ち取ることもある。だから簡単にポジティブ・フィードバックでベキ法則風に分配されてしまうし「どーせ承認されないし」的ジタバタをやったところでハリネズミ症候群となってしまったり、そもそもエントリーポイントどこ?的な話はある。

なお、このまとめ記事では、混乱をできるだけ避けるために、A.マズロー欲求段階説にある用語「承認欲求」「所属欲求」「自己実現欲求」に統一したニュアンスで書いていくこととする。以下のリンク先の文章は「承認」「承認欲求」がそれぞれで微妙に違っているような気がするが、この記事クリップ上では、一律にマズローの欲求の階層を念頭に置いたうえで言及してみる。

それがその人の人生の物語のなかに位置づけられたとき、その行為をなした人は代替不可能な個人として承認されたと言えると思うのだ。

「承認」とジェンダー

なお、Thirさんの流れとは直接関係ありませんが、以下の増田の記事は興味深いので貼っておきます。「承認」の意味自体が変わっているので単純に比較はできませんが、「男は承認を求め、女は理解を求める」と論じていた宮台氏と正反対の言説になっているところに注目してください。

モテ、非モテを問わず、女は男よりも「被承認欲」というものが強い。それってつまり、「あたしは他の人と違う!」と思いたい欲求のことだ。

秋葉原通り魔事件

もう一つ、秋葉原通り魔事件にも言及しておくべきでしょうか。これについての記事は意外に少ないが、以下のものが見つかりました。「承認」の意味自体には、大きな変化はありません。この記事では「承認」は「認められる」という要素と「肯定される」という要素から成るものとして理解されているようです。

電車男も、Kと同様、私的領域での承認を求めていた。そして物語を語る中で、ネット上の無数の匿名の人たちに、その存在を認められ肯定される。こうした物語は「2ちゃんねる」にはいくつもあり、個人的な人生の告白が、無数の匿名の人たちに承認され、続々と書籍になっている(註5)。そこでは「2ちゃんねる」が、個人の苦悩を意義あるものとして認める、承認の共同体として機能しているのだ。一定数の非モテ男性の救いは、ここにあるかもしれない。

まとめ

以上、06~08年にホッテントリ入りした「承認欲求」関係の記事をざっと眺めてみました。Thirさんの記事とか懐かしいですね。

頑張って全部読んでいただいた方には、「承認」という言葉が節操無くいろんな意味で遣われているということは十分すぎるほど分かっていただけたのではないかと思います。この言葉自体について論じるとき以外には、「承認」なんて言葉はつかわずに議論したほうがいいでしょう。Rootportさんの記事も承認なんて言わずに「自己愛」だけで論じられたんじゃないかなという気もしないでもないです*3

*1:そういった考察が全くないわけではないのですが(「承認欲求を満たす」ことがなぜ罵倒語のように機能するようになったのか? - Togetterまとめ「承認欲求」という言葉の歴史的起源をさぐる - Togetterまとめ)、あまり実際の用例にもとづいておらず、印象論に留まっているように思います。もちろん単なる私の調査不足かもしれませんが。

*2:ちなみに09年は100ブクマ超えの記事がありませんでした。一端下火になったあと、TwitterFacebookと関連付けられて復活してきたのかもしれません。

*3:それだとブクマもらえないのがつらいところ。

「新検索β」に見る、ニコニコ動画と図書館の未来

この夏、ニコニコ動画では、ひっそりと「新検索β」というサービスがスタートした。ニコニコインフォによれば、新検索βの機能は以下のものである。

新検索βは、今までの検索と違い、ほぼリアルタイムにコンテンツの情報が反映される検索システムです。
加えて、以下のことも出来ます。

  • 動画、生放送、イラスト、マンガ、電子書籍、チャンネル、ブロマガを横断的に検索
  • それぞれの検索でのフィルタ機能の強化
  • 動画、イラスト、漫画の検索で、投稿日時の期間を指定


新検索βテスト中!ブロマガも追加!‐ニコニコインフォ

今日話題にしたいのは、これらのうち、検索時に投稿日時の期間を指定できるという一見地味な機能だ。この機能の追加は、動画投稿サイトの未来を暗示しているように思える。

 私は今年2月、「「つるぺた」の誤用はどこから一般化したか」という記事を書き、幸運にも多くの方々にご覧いただくことができた。ところで、この記事を書くにあたって気付かされたことが一つ有る。それは、ニコニコ動画がもつ、アーカイヴとしての重要性だ。このアーカイヴという観点から見た時、投稿日時の期間を指定して検索できるという機能がとても重要になってくる。

 ニコニコ大百科の記述によれば、ニコニコ動画(γ)以来、専用の動画投稿サービスであったSMILEVIDEO(現在はニコニコ動画本体に統合)がオープンしたのは2007年3月6日(SMILEVIDEOとは (スマイルビデオとは) - ニコニコ大百科)。現在、ニコニコ動画では、この時以来投稿されてきた動画を視聴することができる。これは、言い換えると、2007年3月6日から現在に至るオタク文化の歴史を語る際に、最も重要な一次資料のひとつである個人制作の動画にアクセスするにあたっては、ニコニコ動画を経由することになる、ということだ。実際、くだんの「つるぺた」に関する記事で資料となった多くの動画の視聴は、ニコニコ動画を介することで初めて可能となっている。

 このことが意味しているのは、近年のオタク文化について調査しようとする際に、ニコニコ動画が図書館と同様の役割を果たしているということである。ここでいきなり図書館と言われてもピンと来ないかもしれないので、少々説明しておこう。小学館の『日本大百科全書』(Yahoo!百科事典を通してインターネットで閲覧できる)によれば、図書館の主たる機能は「資料の収集・保存、利用とこれに伴ういくつかの奉仕活動」を行うことである(図書館 - 種類と機能 - Yahoo!百科事典)。ところで、ニコニコ動画も、「資料の収集・保存、利用」および、奉仕活動ではないものの、これに伴ういくつかの活動を行っている。まず、ニコニコ動画は、投稿を受け付けるという形で、資料=動画を収集している。そしてそれをサーバーに保存しているのもニコニコ動画だ。さらに、動画プレイヤーを提供し、利用を可能にしている。これに加え、動画検索サービス等が、収集・保存および利用に伴う活動だと言えるだろう。すなわち、ニコニコ動画は、図書館とほぼ同等の機能を備えているのである。こう考えると、オタク文化に関する調査(本当はそれに限らず、個人が作成・投稿する動画が資料として役立つような調査)で資料収集を行う際に、ニコニコ動画が非常に重要な役割を果たしていることは当然のこととして理解されるだろう。この意味で、ニコニコ動画は、一企業の活動としては異例とも言える公益性を有している*1

 冒頭で話題にした「動画、イラスト、漫画の検索で、投稿日時の期間を指定」するという機能は、ニコニコ動画がこのアーカイヴとしての公益性を強化する動きの一つとして理解することができる。私がこう考えるのは、2月に「つるぺた」について書いた際の体験にある。2013年2月の時点では、この機能は存在しなかった。そしてこのことは、記事を書く上で、深刻な問題として感じられていた。実はこの点、「つるぺた」の記事自体は幸運にも資料にアクセスすることが容易ではあった。なぜなら、ニコニコ動画(γ)初期の動画が主要な資料だったからだ。この時期の動画に関しては、「投稿が古い順」に並び替えることで、キーワードさえ適切に選択すれば、比較的容易にアクセスすることが可能だった。しかしこれは裏を返せば、それ以外の時期の動画、特に2009~2011年ごろの動画に検索を介してアクセスすることは、かなり適切にキーワードを選ばなければ難しかったということである。あの記事を書いた際の実感として、分析の対象を2009年以後に拡大することは非現実的だと思われた。しかしながら、期間を指定することができれば、この問題は解決する。それゆえ、今夏から始まったこの機能は、将来ニコニコ動画がアーカイヴとして利用される際に、非常に有用なものとなることが期待されるのである。

 このような動きの根底には、既に指摘したとおり、動画投稿サイトと図書館の類似性がある。両者の関係を今後どのような形にするのがよいのか、ということも大きな問題である*2。原則としては、動画投稿サイトに投稿された重要な資料へのアクセスを保障することは図書館の使命であるように思われる。しかしながら、サーバーを維持し、大量のデータを選別・維持・管理するノウハウとコストを一朝一夕に既存の図書館に導入することは、容易なことではないだろう*3。この過渡的な時期がしばらく続くとするならば、動画投稿サイトが果たすアーカイヴとしての役割は、さらに増大していくことだろう。

*1:この点、実ははてなのような各種ブログサービスや2chのような掲示板サービスも同様である。ブログのようなwebサービス、ならびに各種SNSに関しても、その公益性が見落とされやすいという構造は共通している。GoogleYahoo!も同様の構造を持っているものの、これらの支配的なシェアを持つポータルサイトに関しては、その公益性も既に自覚されているように思われる。

*2:もちろん、問題は日時の指定だけではない。現在思い思いにつけられたタグによって行われている分類の公共性をいかにして高めるか、という問題もある。また、個人が投稿した動画が重要な資料的価値を持つことになる動画投稿サイトでは、最近話題の「忘れられる権利」と「知る権利」の対立が先鋭化した形で現れるという問題もある。

*3:id:myrmecoleonさんがんばれ。

「相方」呼びが気持ち悪いのは、パンチラがエロいのと同じ

 ネット上で過去何度も議論になってきた、恋人を「相方」と表現することの是非について、先週も話題になった。

 増田の主張は、以下の三行に凝縮されている。

相方派の人はどちらかというと「彼氏」「旦那」など連呼することのほうが気恥ずかしいと思っているっぽいですが、
「相方」って表現も思っているほどフラットな言葉ではないですよ。
聞いていて気恥ずかしい…

 この主張自体は、一応認めて良さそうに思う。しかし、なぜ「相方」という表現は気恥ずかしさを誘うのだろうか。

 これを考える上で示唆を与えてくれるのは、「チラリズム」である。wikipediaでは、「ちょっとだけ見えることから気づかれていなかった欲求を励起し、想像力がかき立てられる」といった効果を引き起こすもの」としてチラリズムが説明されている(パンチラ - Wikipedia)。「見えそうで見えない」ことにより、逆に興味を引かれ、想像力が掻き立てられる。この感覚が存在することは、実際にそのような(性的)嗜好を強く持つか否かにかかわらず、理解することは可能であろう。

 私は、「相方」呼びは、これと同様の効果を引き起こしていると考える。つまり、「相方」と言われると、聞き手は一瞬、話し手と「相方」がどんな関係にあるのかわからなくなる。それゆえに、興味を引かれ、どんな関係なのか想像することになる。そして、考えた結果として、「相方」が恋人ないし配偶者であることを察する。このプロセスを経ることにより、話し手の意図とは裏腹に、「相方」関係が性的な関係であることがかえって強く意識されてしまう。この構造ゆえに、「相方」の呼称はちょっとした軋轢を産んでしまうのではないだろうか。

体験と発想力を使い果たしたところからブロガーの戦いは始まる

 ブログを始めるのは、書きたいことがあるからだ。だから、始めた頃は、いくらでも書くことがある。しかし、数ヶ月も書いていると、息切れしてくる。してきた*1。でも、書くことの楽しみは忘れられない。

 そこで思い出したのが、村上龍が『海の向こうで戦争が始まる』という二作目の小説につけていた「あとがき」だ。

 この作品を描き上げた夜、あるバーでリチャード・ブローティガンに会った。「二つ目の本になる小説を書いたよ」そう言うと、ブローティガンは「ふうん」と横を向いた。この野郎、おめでとうくらい言ったらどうだ、と思ったが、彼はその時起源が悪かったらしい。もう一度僕に向き直るなり、「大事なのは、三作目だ」と短く言った。
「処女作なんて体験で書けるだろ? 二作目は、一作目で習得した技術と想像力で書ける。体験と想像力を使い果たしたところから作家の戦いは始まるんだから」
 脱稿の酔いが、あっという間に醒めてしまった。そのバーからの帰り、昔の友達のことを思い出した。「俺が生きてる時は注射針が腕に刺さっている時だけだ。残りは全く死んでいる。残りは注射器の中に入れる白い粉を得るために使うんだ」歩きながら、小説は麻薬とそっくりだと思った。 

 「俺が生きている時は、ブログを書いているときだけだ。残りは、ブログに書くネタを得るために使うんだ」。なんとなくニヤリとしてしまうひともいるのではないか。「サイトを更新しているとき」「ブコメを書いているとき」「ツイートしてるとき」と置き換えてもよい。

 生きることは、哀しくも楽しい。

海の向こうで戦争が始まる

海の向こうで戦争が始まる

*1:私の場合、6月の更新が減ったのはGARNET CROWが解散してしまったせいもあるが。

あなたは「児童ポルノ禁止法」のどこに賛成/反対ですか?

児童ポルノ禁止法、どうなるのかわからない状態が続いておりますね。私は、こんなところにものを書いて遊んだりしている人間ですので、「表現者」なんて偉そうな肩書きは名乗りませんけれども、行方を不安をもって見守っている一人です。

ということで、私は原則として反対の立場なのですが、ネット上には、とにかく反対する理由になりそうな事例を何でも取ってきて批判する、という構成の記事が散見されるように思います。たとえば、「海外では孫の水浴び写真で逮捕された」「しずかちゃんの入浴シーンが入っているドラえもんを持っていたら逮捕される」「20年前の写真集でも自宅で燃やすしかなくなる」「ジャニーズの写真集を買うと逮捕される」等々。これら3つは、アウトになる理由がそれぞれ違うのですが、これらの違いをきちんと説明せずに、「ほらヤバいだろ!」と叫んでいる反対派の姿を、ネットでよく目にします。しかし、これらを並列してしまうと、争点がどこにあるのか、かえって見えにくくなってしまいます。

そこで、以下では、これらの違いを切り口にしながら、どれがどの理由で規制されるのか、どこまでの規制は受け入れられるのか、どこからは行き過ぎなのか、一旦整理しなおしてみたいと思います。読みながら、それぞれに賛成・反対を考えていただけたらとてもうれしいです。なお、議論に入る前に、一応現行法と改正案の全文へのリンクを貼っておきます。

典型的な児童ポルノの製造・販売

規制することが容認されそうな順に見て行きましょう。まず、「ふつうの」児童ポルノ。要は児童が出ているAVみたいなやつを考えればよいのでしょう。実際に見たことが全くないので知らないですけれど。これが禁止されることに文句のある善良な市民は、いないのではないかと思います。

我が子への授乳写真

一時話題になり、テレビ等でも驚きをもって取り上げられた事例があります。アメリカで、我が子に授乳している写真を家族写真として撮ったところ、虐待とみなされてしまったという事例です。

最近では、水浴中の孫の写真で逮捕されたイギリスのおじいさんの話もありましたね。これらは日本の法律では、児童ポルノ禁止法第2条3項2号「他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」、いわゆる2号ポルノに該当するとされてしまった事例です。

これに関して、知るべきポイントは二つ。一つは、今回の改正案ではこの点は争点ではないということ。なぜなら、このような事例で逮捕されてしまう可能性は、現行の法律で既に十分あるからです。二点目は、この問題は、虐待の有無を「性欲を興奮させ又は刺激する」か否かという、写真を見たものの主観的が強く入らざるを得ない判断を通して決めることができるのか、という問題である、ということです。非常に問題的ではあるのですが、「表現の自由」云々という観点からすると少し外れた問題でもあります。反面、国家権力・警察権力の強さを問題にする場合には、十分争点になるでしょう。

現在では児童ポルノとみなされることが少ない写真集など

ジャニーズとか、いわゆるジュニアアイドルとかですね。

これらは児童ポルノ禁止法2条3項3号「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」に抵触する危険があります。ただし、これも製造・販売に関しては、現行法でも十分規制されうるという点には注意が必要です。(「単純所持」は今回の改正の争点です。)

私は、ジャニーズやその他の未成年アイドルに関する商品が虐待に当たるのかどうかというのは、かなり危うい問題であると思います。少なくとも、彼らが不本意な人生を歩んでいないか、きちんと検証する必要は、どこかのタイミングで出てくるかもしれません。(モー娘。があんまり幸せになってない感じがするとか、そういうことを漠然と考えています。)

ジュニアアイドルについては、状況は更に深刻です。たとえば、こんなまとめがあります。

絶対あるだろうなと思って「ジュニアアイドル AV」で検索したらすぐヒットしたのですが、これが当然のように存在している事実は、かなり問題であるように思います。子どもの頃に、親に言われたりしてやっていたきわどい仕事がもとでポルノ業界で働かざるをえない状況になるというのは、虐待に限りなく近いのではないでしょうか。業界の内情とかは知らないのでそういうことではないのかもしれないけれど。

かなり規制側に肩入れするようなことを書きましたが、3号ポルノについては、線引きが非常に難しいという問題があります。家族写真でも、同様の問題は出てくるでしょう。しかし、フィクションの場合と違って、「被害者がいない」とは言い切れない状況は直視して、その上で判断する必要があると思います。また、判断基準は「それが虐待であったか」であって、「写真が性欲を刺激するか」ではないだろう、という直感もあります。この違和感も、強調されてよさそうです。

また、虐待があったかどうかに問題を定めても、「虐待であったか」の判断が再び恣意的になりえます。しかしこの種の問題は、人を罰するか罰さないかの線引きをするときに、常に付随してくる問題でもあります。この特殊事例という側面が児童ポルノの問題にも有る、ということも念頭におかれてよいかもしれません。

上記にかかる「ポルノ」の単純所持の問題

これまでは、製造と提供に関して話してきました。これとは別に、上でポルノと判断された写真を持っているだけで犯罪とするのか否か、という問題があります。これは、今回の改正案の争点になっている点の一つです。

この規定の問題がもっとも顕在化する場面の一つは、図書館の本をどうするか、と考えた時でしょう。すでに2005年には、国会図書館法務省から、裁判の結果等を待たずに、図書館自身で児童ポルノかどうか判断して閲覧制限をかけよ、と指示したと報じられています(元記事は消えていますが)。

さらに単純所持が禁止になると、図書館は自分でポルノと判断した書物は捨てなければならない、ということになるでしょう。しかし、そんな判断は、本当に可能でしょうか。また、これは、図書館員による検閲にはあたらないのでしょうか。さらには、閲覧禁止の状態で保管することすら禁じられた場合、将来の歴史研究にとっての打撃にはならないでしょうか。たとえば2000年前の児童虐待の様子が写真に撮られていたというSF的な想定のもとで、その写真はおぞましい記録として永遠に捨てられてもよいのでしょうか。

フィクションの問題

フィクションの問題、特にマンガやアニメの問題が登場するのはこの位置です。規制されるべきものから最も遠い位置。虐待の事実はない。被害者も存在していない。禁止されるべき理由は、「犯罪を助長しそう」くらいしかなさそうです。(これは規制の理由にはなりえないと私は考えています。以前書いた記事もお暇ならご参照ください。)

この領域への規制は、それ以前の段階と比べて、著しく趣が異なっています。これまでは、現実児童が写っている写真は存在し、そこに写っているものが虐待であるのか否かが問題でした。たとえば授乳の写真が逮捕の対象か否かは、それが虐待か否かという問題と直接結びついていました。しかし、フィクションは明らかに虐待ではありません。そこには「誰もいない」のだから。私には、この法律の枠内でこれを規制することは全く理にかなっているとは思えません。

フィクションの単純所持

「昔買ったドラえもんで逮捕される」といった可能性は、ここに当てはまります。それ自体問題だった単純所持への規制と、全く理にかなっていないフィクションへの禁止の合わせ技。かなり特殊で極端な事例と言ってしまってよいでしょう。

ただし、この例を反対理由の筆頭に持ってくることは、あまり得策ではないのではないかと思っています。これが規制されるとしたらもちろん問題でしょう。しかし、この事例が逮捕に当たりかねないということを説明するのはかなり複雑な議論を必要とします。フィクション規制に反対するという目的であれば、「児童ポルノ規制は被害児童救済が目的、しかしフィクションには被害者がいない」という一点に絞って議論する方が、争点がはっきりするように思えます。

まとめ

ある程度項目に区切りながら、それぞれ争点がどのように異なるか、また、今回の改正案との関係について、説明してみました。かなり雑で抜けも多いものになってはしまいましたが、少なくとも、「アメリカで授乳写真で逮捕された」という事例と、「ドラえもんで逮捕されるかも」という事例を、単に規制反対の根拠になりうるというだけで並列させて扱うのは雑すぎるし、かえって反対派の争点を見えなくしてしまう、ということくらいは示せたのではないかと思います。

みなさんはどんな理由から、どこまでが規制されるべきで、どこからは規制されるべきでないと思いますか? また、どこまでを規制すれば、児童の権利を守りつつ、表現の自由・検閲の禁止を最大限守ることができると思いますか?