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長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

「togetter: 哲学vs物理学:哲学ってただの「考え事」じゃないの?物理学者からみた哲学」について

 以下のまとめを読んで考えたことを、最近の自分自身の勉強のまとめも兼ねて、記事にしてみます。

哲学vs物理学:哲学ってただの「考え事」じゃないの?物理学者からみた哲学 - Togetter


 この記事を書こうと思ったのは、

私は「哲学」をやっているという意識を持ったことは一度もなく、ひたすら「物理」を考えているつもりです。

と言うよりも「哲学」の定義がいまだにわかりません。哲学ってただの「考え事」じゃないのか、言葉遊びじゃないのか、と今でも私は思っています。

こうおっしゃっている谷村先生が、同時に展開している「言葉にしても数式にしても、所詮は現実世界の粗い近似でしかない」という説は、立派な、そして至極まっとうな哲学説の一つだ、ということを示すことが、哲学に少し関わっているものの責務かな、と思ったからです。ちなみに、件のまとめからは、物理学者に対する敵対意識というよりは、真理を探求する者としての共感を強く感じています。失礼な言い方になってしまいますが、誤解を恐れずに言えば、谷村先生は、ご本人の自己認識とは逆に、非常に哲学的なセンスのある方、入り口に気づきさえすれば、哲学の面白さを理解しうる方なのだろうな、とも感じています。

 さて、谷村先生は、「「昨日見た雲」を厳密に誰にでもそれとわかるように言葉で言い表すことはできないように言葉というものはできています。」とおっしゃっています。この考え方は、「外すことのできないメガネ」や、「出ることのできない映画館」といった比喩によって理解することができます。谷村先生は、「物理学者の方が言葉や数式の力の限界をよく知っていると思うのです。言葉にしても数式にしても、所詮は現実世界の粗い近似でしかない、ということを知っているのです。」「論理や数学というものは、現実世界のこまごまとした部分を無視して捨てて割り切ってしまうことによって厳密性を担保しているのです。」とも述べています。これは、論理や数学、物理法則、それに言語というものは、現実に起こっている出来事の「粗い近似」を与える一種のメガネだ、と言い換えることができるように思います。解像度の低いデジカメの画面を通して世界を見れば、自然が見せる細かな色合いの違いは見えなくなってしまいます。また、真っ赤なセロファンの貼られたメガネを通して世界を見れば、本当は赤くないものまで真っ赤に染まって見えます。これと同様に、論理や数学、言語のメガネを通して見ると、世界そのものではなく、それらによって歪められた「粗い近似」しか見ることができなくなる。谷村先生はこう主張されています。

 ここで、少し視点を変えて、それでは、「粗い近似」でない、「現実世界そのもの」はどのようにして知られるのか? と考えてみましょう。論理や数学を離れ、言葉によって表現することをやめ、実験室を出て、世界を自分の目で直にみることによって、でしょうか? そうかもしれません。しかし、自分の目で直に見られたこの世界が、本当に現実世界そのものなのか? と問うことは、依然として可能であるようにも思えます。

 「そんなことはありえない、これが現実に決まっている」と思う方は、可視光線の波長について考えてみるとよいでしょう。

可視光線 - Wikipedia

よく知られているように、人間の目は、波長が380‐750nmの光しか見ることができません。つまり、それ以外の波長の光を全て切り捨てた、「粗い近似」しか見ることができないようにできているのです。実験室から出ることはできても、この目の制約を逃れることはできません。同様のことは、おそらく、いわゆる五感のすべてについて言えるでしょう。

 そうすると、我々は現実世界そのものを見ることはできず、常に「粗い近似」しか見ることができないのではないか、という疑念が生じてきます。これは一般に、「センス・データ論」と呼ばれているものです。これは、谷村先生がおっしゃっていた「言葉や数式の力の限界」を、「人間の知覚の力」の限界へと拡張した考え方だと言えるでしょう。つまり、「「昨日見た雲」を厳密に誰にでもそれとわかるように言葉で言い表すことはできないように言葉というものはできています。」という説の、「「昨日見た雲」どころか、今見ている雲をすら、ありのままに捉えることはできない、そのように、人間の知覚というものはできている」という説への拡張です。

 この説は、一見非常に禁欲的で、好ましい説であるように思えます。少なくとも谷村先生のつぶやきに共感された方なら、この説にも共感される方は多いのではないでしょうか。しかし、この説は実は、非常に大きな問題を抱えています。

 センス・データ論では、我々は現実世界の「粗い近似」しか知ることができないとされています。このとき、我々に見える世界の向こう側に、我々には決して見ることのできない、「現実世界そのもの」がある、と考えざるを得なくなるように思えます。そうでなかったとしたら、我々に見える世界は、何の「近似」なのかわからなくなるからです。しかしながら、こう考えると、途端に大きな問題が口を開きます。

 ここで、「近似」ということについて考えてみましょう。3.14が円周率πの近似なのは、πが 3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288...という無理数だからです。このとき我々は、まずπ=3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288...であることを計算によって知り、そのあとで、これを3.14で近似して計算に用いています。おわかりでしょうか。このとき、近似されるべき元の値が先にわかっていて、それをもとに、その近似である3.14が知られる、という順番になっています。逆に、もし、π=3.14という近似しか与えられていなかったら、どうでしょうか。このとき、私たちは、この近似を通して、π=3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288...であることを知ることができるでしょうか。当然、これは不可能です。そして、このとき、π=3.14がπの値の「近似」として妥当であるかどうかということ自体も、全く確かめることができなくなってしまいます。"3.141"までの計算が有効だと認められていなかったら、3.13や3.15ではなく3.14こそが最も妥当な近似であると、なぜわかるのでしょうか?

 これと同じことが、人間の知覚についても言えてしまうのです。センス・データ論では、人間の知覚は、現実世界の「粗い近似」でしかなく、現実世界そのものについて知ることはできない、と言われていました。これは、円周率に置き換えると、人間はπ=3.14しか知ることができず、π=3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288...であることは絶対に知ることができない、と言っているに等しい事態です。このとき、我々に見えている世界が、現実世界の「近似」であると、なぜ言うことができるのでしょうか。知覚された世界がが現実世界に「似ている」かどうかなど、我々には全くわからないのではないでしょうか。

 この問題を避ける道は、「我々に見えている世界とは別に、現実世界そのものがある」という考え方を捨てることしかないように思えます。つまり、我々に見えている世界は、現実世界の「粗い近似」などではない、この見えている世界こそが、現実世界そのものなのだ、と考えるのです。この考え方は、「素朴実在論」と呼ばれたりします。

 さて、このへんで、この記事は終わりにしたいと思います。本当はもっと厳密に議論する必要がありますし、私の勉強不足で見落としている論点も多々あるでしょう。しかし、「言葉にしても数式にしても、所詮は現実世界の粗い近似でしかない」という谷村説が、哲学と直接につながっているということを示す、という、この記事の目的は果たせたのではないかと思います。

 最後にひとこと。哲学、おもしろいですよ!