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長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

実名報道の公益性とマスコミの権力

 実名報道に関する記事にたくさん反響を頂いたので、いくつかの論点に分けて、批判に応えてゆこうと思う。

 はじめに断っておくが、頂いた批判を見る限り、前回の記事での私の主張の核心部分については、強力な批判は見いだせなかった。その核心部分とは、「遺族が拒否した時に実名を公表してもよいのか」という問題と、「取材において非常識・不誠実な手段を用いても良いのか」という問題は分けて考えるべきだというものである。以下、この点については前提して話を進めたい。

 強力な批判が集中したのは、前者の問題、「遺族が拒否した時に実名を公表しても良いのか」という問題に、私がYesで答えた、という点である。確かにこの点については、私の議論にかなり脇の甘いところがあった。これを反省しつつ、批判に応えてみたい。

「遺族の関与」という例の不適切さについて

 はじめに取り上げたいのは、「今回の事件ではその可能性はないが、これを認めて普遍化してしまうと、遺族が被害者の死に直接関係している場合等に、情報をいいように歪められてしまう可能性が生まれる」とした点に関する反論だ。

本エントリにある"今回の事件ではその可能性はないが、これを認めて普遍化してしまうと、遺族が被害者の死に直接関係している場合等に、情報をいいように歪められてしまう可能性が生まれる。"という主張の中で"今回の事件ではその可能性はないが"と本件の特殊性(遺族の判断によって情報が歪む恐れがない)を認めていらっしゃるのに、同じく本件に限定した文脈としてのマスコミの主張にあたる"本件のような事例では、遺族は氏名の報道を拒否できないと思う"という宮川氏の発言を肯定するというのは全く矛盾しています。(hamanakoさんのコメントより)

この指摘は的を射ているように思う。たしかに、情報を公表することが公益にかなう理由として、「遺族が情報を歪める可能性」に言及したことは、ミスリーディング、というより、不適切であった。今回の件に関して、遺族の意向にかかわらず実名で報道すべき、という議論を組み立てたいのなら、このような特殊事例を論拠とすべきではなかったと思う。また、一般にも、実名で報道すべきである理由は、遺族が情報を歪める可能性があるからではないだろう。この点に関しては全面的に議論の不備を認めたい。

本当に情報は歪められるのか?

 ところで、以上の議論が崩れると当然出てくると思われるのが、以下のような反応である。

事件被害者が一般人の場合、遺族に対する影響を考えれば仮名での報道で十分と思う仮名で報道したことで真実味が損なわれるとも思えないし、報道内容の検証も可能なはず
従って、実名報道する意味がわからない
(通りすがりさんのコメントより)

 つまり、そもそも匿名報道になることで歪められる事実などないのではないか、という批判である。しかしこれについては、警鐘を鳴らすレポートがマスコミの側から提示されている。

NHKと民放キー局も加盟している日本新聞協会は,個人情報保護法の全面施行や犯罪被害者等基本計画の策定に伴い行政機関や警察等による「匿名発表」が増えているなかで,2006年12月に「匿名発表」に関する実態と基本的考えをまとめた冊子「実名と報道」を刊行した。
新聞協会の2005年5月の調査によれば,警察による被害者の「匿名発表」は28都道府県,被疑者の「匿名発表」は20都道府県,事件・事故そのものの未発表は27都道府県にのぼっている。
発表を匿名で行っただけでなく,事実を加工して発表したケースもあった。
熊本県では,2004年に息子が父親を監禁し暴力をふるった事件で,警察は被害者を匿名で発表し,息子を父親の知人だと説明,親子とは発表しなかった。事柄の本質にかかわる重大な事実の加工だと新聞協会は指摘している。

(中略)

 新聞協会は,「匿名発表」は容易に進化,あるいは深化し,それを見過ごしているうちに拡大し,やがて意図的,組織的な隠ぺい,ねつ造に発展するおそれがあると警告している。「実名発表」は「事実の核心」であり,実名があれば「発表する側はいい加減な発表や意図的な情報操作はできなくなる」として,読者や視聴者の「知る権利」に応えるために「実名発表」が必要だと主張している。
「匿名発表」の問題点を指摘 新聞協会が冊子「実名と報道」刊行 | 調査・研究結果 - 放送研究と調査(月報)メディアフォーカス | NHK放送文化研究所


今回の問題に対するマスコミの対応は、基本的に、情報の歪曲を具体的に示し警鐘を鳴らしたこのレポートの線に沿っていると言える。ここで具体的に示されている情報の歪曲の例を受けてなお、情報の歪曲などありえないと主張し続けることは難しいように思う。それゆえ私は、遺族が死に関与しているという例は撤回するが、それでもなお、情報が歪曲される可能性に関しては認められると考える。

それでも残る問題

 以上のように、情報が歪曲される可能性それ自体は認めてもよいのではないかと思う。しかし、これを仮に認めたとしても、まだ批判はありうる。それは、「仮に情報が歪められる危険という代償を払ったとしても、それでもなお実名報道をしないことの方に公益性があるのではないか」という批判である。この批判は、「それでもなお公益性がある」という箇所をどのような根拠で主張するのかによってさらにいくつかのパターンにわかれる。

第一のパターンは、死者の人権に配慮すべき、というものだ。

死に方はプライシーであり、死者が生前に認めた場以外は、実名を公表が認められない。遺族の要望により、実名を公表するとしても、本来ならそれはやめるべきもの。メディアスクラムとは無関係の問題
id:ootori3966さんのブコメ

このラインは、かなり厳しいのではないかと思う。生者の知る権利に、死者のプライバシー権が優越すると主張することになるからだ。また、死者が何も意志を残していない場合に、公表しない方をデフォルトにするという判断の根拠も薄い。いずれの意志も残していないならば、死者が公表を求めていたか拒んでいたか判断することは不可能である。そうであるならば、いずれが生者にとって利益が大きいか、という点から判断すべきだと思う。

 第二のパターンは、遺族が被る影響に配慮すべき、というものである。

いや、被害者が既に死亡している以上、実名が公表されることによる影響は第一にその遺族が背負うことになるのだから、当然その可否について遺族が判断する権利はあると考えるのが妥当でしょ。(id:inumashさんのブコメより)

 この議論は、ひとつには、現状では報道によって遺族が多大な迷惑を被る可能性が否定できない、という問題を背景に持っているように思う。つまり、ここでメディアスクラム、並びに不適切な取材の問題が再び浮上してくるということである。不適切な取材をブロックする手段として、そもそも実名が公表されなければよいのでないか、というのである。

 この議論についての私の考えは、不適切な取材は確かに認められないが、これを除く手段として報道そのものを諦めるというのは代償として大きすぎる、というものである。マスコミの自助努力が足りていなさそうに見えるのは事実である。しかし、そもそも遺族が取材を快く受け入れる可能性もある。そうでなくても、誠実に取材した上でその結果を報道することは、公共の福祉にかなっているように思う。

 第三のパターンは、上の二つとは毛色が異なる。上の二つは、報道による悪影響が大きい、というものだった。しかし次のパターンは、報道による利益なんて大してないじゃないか、というものである。

新聞社が被害者の名前と顔写真を報道するのは、三面記事の華だからって営業的事情に過ぎないよね。
id:dekainoさんのブコメより)

このコメントはそもそも私への批判として書かれているわけではなさそうなのだが、多くの方が持っている印象ではあろうと思う。実名を使って、結局はしょうもない三面記事を書きたいだけなんじゃないか、と。

 これについて、現状でそうなってしまっている部分はあると思う。しかしながら、これについては、「だから実名で報道するな」という方向ではなく、「実名を使ってもっと室の高い報道をしてほしい」という方向で議論するほうがよいように思う。

 最後のパターンは、そもそもマスメディアは権力を握りすぎなのではないか、というものだ。

民間企業に過ぎない報道企業が、公的機関であるかのように装い、勝手に公益性を謳い国民の代表者ぶる、その権限の根拠があるようには思えないのです。
(RASさんのコメントより)

 マスコミは何らかの権力を握っているということはしばしば指摘されるし、「第四の権力」と言われることもある。この語の出自については様々な問題があるようだが(参考:
[http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060822/daiyon:title=第四の権力」という誤訳がマスコミとマスコミ批判者を誤解させている件について(←こういうのサイテー) - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt))、公権力ではなく、かつ権力を持っている、ということ自体は認めてよいだろう。マスコミは、自らの伝えたいことを不特定多数の人に伝え、これによって影響力を行使することができる。これは権力と呼ばれるにふさわしい。

 マスコミは事実として権力を握っている。そうであるならば、この権力は、公益のために用いられるべきである。もちろん、何が公益にかなうかを簡単に確定できない以上、報道の中にマスコミ自身の主張が入り込むことはある程度は仕方がない。それでも、少なくともマスコミ自身が公益にかなうと判断したことを報道すべきである。

 それでは、マスコミが提供しうる公益とは何か。それは第一には公権力の監視であり、第二には我々の知る権利に資することである。少なくとも建前として、この看板自体を攻撃することは難しいのではないだろうか。たとえば原発事故の際に、枝野氏の会見が「大本営発表」と揶揄されたことも、この建前の正しさが認めらていることを裏付けているように思う。

 アルジェリアの事件に関して言えば、実名を公表するかしないかもめていた段階で、政府と日揮は既に犠牲者の情報を握っていた。ところで、遺族はともかく、政府と日揮とは、今回の件への対応に関して責任を負っている。言うならば、国民によって広くチェックを受けるべき主体である。そうであるならば、その政府と日揮と、それをチェックする国民の間の情報の不均衡はできるだけ(「できるだけ」というのは例えば安全保障に関して大きな支障がある場合はまずいということだが)少ないほうがよかったのではないか。

それでもマスコミは批判されるべきである

 以上のことから、少なくとも建前のレベルで、実名を公表することの公益性を否定し去ることは難しいと思う。しかしながら、実名公表の直後に実際になされた報道が、事件の背景を検証するものではなく、犠牲者の生い立ちなどの「お涙頂戴系」の、公益性に関して劣るように思える報道であったということもまた、記憶されるべきであろう。

 建前のレベルで正しいことを言っているかということと、実際にその掲げた理念に見合った報道がなされているかということは別である。また、マスコミは常に公権力を正しく監視し、国民の見方であるなどという無邪気な主張をするつもりもない(この点に関して、マスコミ内部から問題提起した記事として以下を参照:
メディアは本当に「第四の権力」なのか | ニューズウィーク日本版編集部 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)。これについては、マスコミが権力を正しく使っているか、監視していくしかあるまい。幸い我々は、マスコミを監視する「第五の権力」、インターネットを手にしつつある。