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長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

手段と目的を分けなければ幸福は語れない

 今日のテーマはこの記事。

「目的があっての手段だ」なんて考え、つまらなくないですか? - nanapi社長日記 @kensuu

 これ、本人分かってやってるのかもしれないと思うのですが、明らかにおかしいですよね。それでもこんなにブクマが伸びているのは、(もちろんツッコミどころがあるということもそうですが)、結論を導く論理がおかしいのに、結論はなかなかいいことを言っている、というところにあるように思います。この種の記事にこういうこと言うのは野暮かもしれないし、多くの方は気づいてるだろうと思うのですが、どうしても気持ち悪いので、どこがおかしいのか明確化しておきたいとおもいます。

 記事では、たとえば、以下のような結論が何度も繰り返されています。

目的なんかよりも、手段のほうが輝いてたりすること、よくあります。サービス作ったり、起業したりいろいろしてきましたが、やっぱり宝物は、一緒にやってきた人だったり、その過程だったりするのですよね。「結果がすべてだ」というのは一瞬かっこいいかもしれないですし、潔いかもしれないですけど、僕は「過程がすべて」なんですよね。どう何をやったかってとても大事なんです。

 まず指摘できるのは、この短い引用の中で、概念がすりかえられているということです。はじめは「目的」と「手段」の話をしていたのに、最後には「結果」と「過程」の話になっています。このすり替えは非常に巧みに行われています。目的と手段という言葉には、「手段は目的に奉仕するもの」という価値の序列が既に含まれているのに、過程と結果に含まれているのは、「結果は過程に引き続くもの」ということだけで、価値の序列についての含みはないからです。

 しかしそれ以上に問題なのは、過程にこそ価値がある、ということをきちんと正当化しようと思ったら、再び目的と手段という概念に訴えなければならない、というところにあります。このことについて、アリストテレスの『二コマコス倫理学』の一番初めの議論を参照して考えてみましょう。

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

 アリストテレスが目的と結果を区別するのは、その区別が「善」とは何かを知るために不可欠だと考えるからです。

 いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。「善」をもって「万物の希求するところ」となした解明の見事だといえる所以である。

 種々の場合の目的とするものの間には、しかしながら、明らかに一つの差別が見られるのであって、すなわち、活動それ自身が目的である場合もあれば、活動以外の何らかの成果が目的である場合もある。目的が何らか働きそのもの以外にあるといった場合にあっては、活動それ自身よりも成果のほうが善きものであるのが自然であろう。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』、高田三郎訳、岩波文庫、15ページ)

 このように、アリストテレスは善い活動を「それ自身が目的である」活動と、「目的が何らか働きそのもの以外にある」活動とにわけます。そのうえで、両者の良さには、前者が後者に優越するという序列が有る、と言うわけです。

 さらにアリストテレスは、こうして序列づけられた様々な善いものの中で、最も善いもの、最高善とは何か、と問い、それは幸福であると結論づけます。

 いかなる知識も選択も、ことごとく何らかの善を欲し求めている。だとすれば、われわれがもって政治の希求する目標だと成すところの「善」、すなわち、われわれの達成しうるあらゆる善のうちの最上のものは何であるだろうか。名目的には、たいがいのひとびとの答えはおおよそ一致する。すなわち一般のひとびとも、たしなみのあるひとびとも、それは幸福(エウダイモニア)にほかならないというのであり、のみならず、よく生きている(エウ・ゼーン)ということ、よくやっている(エウ・プラッティン)ということを、幸福にしている(エウダイモネイン)というのと同じ意味に解する点においても彼らは一致している。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』、高田三郎訳、岩波文庫、20ページ)

 アリストテレスにおいて「幸福」という結論はなお暫定的なものであり、ここから幸福とは何か、という問いが始まって壮大な議論が続いてゆくわけですが、さしあたり今回はここまでにしておきましょう。けんすうさんの記事の議論のもつれをほぐすには、十分だと思われるからです。

 けんすうさんの主張は、「過程が結果よりも優れている」から、「目的より手段が優れている」という結論を導くものでした。例えば、オリンピックで金メダルをとることよりも、オリンピックに向かって練習に励んだ日々にこそ価値がある、というような場合を考えればよいでしょう。これは、一見すると、「金メダル」という「目的」よりも、「練習」という手段にこそ価値があるという事例であるように思えるかもしれません。しかし、これは間違いです。正しくは、「幸福」こそが金メダルより上位の目的であり、金メダルという手段によらずとも、練習という手段だけでこの幸福を得ることができたということがわかった、と分析されるべきだと思います。

 つまり、問題の事例は、目的より手段にこそ価値がある、という事例ではなく、はじめに思っていた目的(金メダル)以上に価値のある目的(幸福)を、手段(練習)によって直接得ることができた、という事例なのです。このとき、練習という手段より、幸福という目的にこそより価値が置かれている、という序列は変わっていません。むしろ、この目的と手段の連関を用いてこそ、過程が重要である理由も初めて説明できるのではないかと思います。