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長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

やまもといちろう氏のイケダハヤト氏評に見るブログ論

 やまもといちろう氏とイケダハヤト氏の対談の書き起こしを読んだんですけれども、これ完全にイケダさんをダシにやまもとさんがブログ論を語る会ですね。まあそれはそれとして、やまもとさんのブログ論から、イケハヤさん批判にとどまらないないスローガンを取り出せるのではないかと思ったので書いておきます。それは、「バカでもいいから責任を持って丁寧な議論をしよう」ということです。

イケダハヤト「ブログとは自己主張である」

 「イケダハヤト批判にとどまらない」とは言いましたが、まずはイケダさんの主張から少し見てみましょう。彼の第一声。

1.もっと自己主張しよう。僕らは自分の言葉で言わない。それが悪いことにつながる。その裏返しで。2.誰かが何かいうと、出る杭を叩く。例を出すまでもない。多々あるでしょう。みなさんも。だから、3.お話にならない。人が何か言おうとしたときに叩くのは生産的じゃない。

 1は合っていると思います。少なくとも、ブログを書くモチベーションとしてはそれがないということはありえない。でも2と3は、あとで出てくることに重なりますが、かなり雑な議論です。たしかに人間関係の中で、出る杭が叩かれる的なことはあるでしょう。ぐっと自分の主張をこらえなきゃいけない、クソみたいな上司の言葉に従わないと損を擦る、そんな場面もあるでしょう。この意味では、2と3は正しい。でもこの箇所は、ネットで叩かれることについて話しているように思う。もちろんあまりにも有名になってくると、ネットでの炎上がきっかけで実生活にまで影響が出たり、執拗に粘着されて人格否定されて精神衛生が損なわれたり、ということも起こるでしょう。しかし、その事例を一般化しすぎるのはよくない。これはぼくも外から見てる時はわからなかったのですが、自分の発言の痛いところをちゃんと突いてその上で叩いてくれるコメントはありがたいのです。しかも、それは叩いてくれる人の「自己主張」そのものなのです。だから、十把一絡げに「出る杭を叩くな」ということは、それこそ他の出る杭を叩いてしまうことになる。まあこれは結局ちょうどいいラインになかなか落ち着かなくて難しいね、という話では有るのだけれど。

 ちょっと話がそれましたが、イケダさんの主張の中の、「自己主張をしよう」というところだけは、基本的には誰でも納得するところだと思うのです。これは、とりあず念頭に置きましょう。

やまもといちろう「僕らは未熟で愚か」

 それでは、なんでもいいから自己主張すればいいのか。というところで、冒頭に掲げたスローガンが効いてきます。「バカでもいいから責任を持って丁寧な議論をする」こと。これが、ブログで自己主張するときのルールです。「ルール」という言葉の強制的な響きが嫌われるようなら、私が共感したやまもとさんのポリシーだと言っても良うほうがよいでしょうか。

 まず、やまもとさんは、成功した理由を以下のように指摘します。

なぜブログが読まれ、成功したのか、それは愚直だから。だってバカでしょ。こんなとこに立っていて。僕らは未熟だからその状態を日々書いて、実感を持って、ブログが展開されていく。

ブロガーが愚直でバカで未熟だったからこそブログは成功した。あるいは、以下のようにも言われています。

僕らは未熟で愚かだから雑な議論をしてしまう。人を傷つけ嫌な思いをさせる。そういうところから、変化や成長をする。

ここでは、「雑」という言葉が、上の「バカ」とほとんど同じ意味で使われています。私たちの議論の能力には限界がある。誰かを傷つけることもある。

 でも、バカであり、議論に欠陥があるのは、ある程度は仕方ないこと。「自己主張しよう」というイケダさんの提言に従うことは、そして、ブログや文章を書いて公開するということは一般に、自分のバカさを直視するという作業を含んでいます。それでも、そんな欠陥だらけの議論を公表していくことで、ちょっとずつでも成長できる。

丁寧な議論をしよう

 それでは、どうせバカなんだと開き直って、どんな主張でも文章にして公開していけばいいのでしょうか。実は、そうとは限りません。このことを指摘するためにやまもとさんが使うのが、上とは違う意味で用いられる「雑」というキーワードです(意味がずれてしまうのは即興なので仕方ないことでしょう)。

 この「雑」という言葉は、イケダさんを叩く理由として、二度登場します。

僕が気にしたのは。イケダさんは目立ちますよね。で、あと「雑」。なので煽られているのを見るとつい言いたくなる。

もっと雑じゃなくて、丁寧にやってほしい。黒い服を着た人が蜂の巣の近くを歩いている感じ。何か言いたくなる。

「雑ではなく丁寧に」。イケダさんの雑さというのは、まあ私がわざわざ指摘することもないと思うんですが、自分の経験をなんとなく一般化して、自分以外の大勢の自由業の人々の状況について調べたり考えたり擦ることもなく、フリーになるとやりたいこといっぱい出来るよーとか適当なこと言っちゃって、はせさんの逆鱗にふれたりする、あの感じですよね。これはいただけない。

 この「丁寧に」というのは、イケダさんだけでなく、やまもとさんから、少なくとも目立つ文章を書く人々一般への注文でもあるのだと思います。雑な議論をしてはいけない。文章は丁寧に書こう。

丁寧であるとは、責任を持つということ

 しかし、そうはいっても、我々はバカなのではなかったか。自分が書いている文章が雑か丁寧かだってわからないのではないか。何をもって丁寧だということになるのか。また、そもそもどうして丁寧な議論をしなければならないのか。

 この疑問に一挙に答えるべくやまもとさんが持ち出すのが、「責任」という概念です。

より良い人生のためには考える必要がある。無責任に勧めるのは煽り。

イケダさんの雑な議論がいけないのは、無責任だから。ここではこの言葉は、イケダさんの妄言を信じて会社辞めちゃう人の人生に責任持てるか、という具体的な含みをもって言われています。

 でもきっとこれは一般化できる。人に見られる場所に文章を書くということは、それを読んで影響されるかもしれない人に対して、また、そうでなくても時間というコストをわざわざ払ってその文章を読んでくれる人に対して、責任を負うということなのです。そしてこの責任感と覚悟に照らして、出来る限り丁寧に、そう、バカだけど丁寧に、文章を書かなければいけない。

責任は批判への謙虚さを伴う

 ところで、この「自分が書いたことに責任を持つ」ということは、自分の文章に寄せられた批判に対して謙虚である、ということでもあると思います。批判の中にはたしかに取るに足らないものもあるし、ノイローゼ的に反応しまくる必要はないのですが、それでもできるだけ真摯に耳を傾けて、あ、これは当たってるな、と思ったものについては改善してゆかなければならない。これが文章に対する責任の取り方だし、僕らはバカだけどそうして反省するからこそ成長することが出来る。

 ちなみにイケダさんの議論が異常に雑であり続けてしまうのは、この謙虚さというか柔軟さが欠けているからなのではないかと思います。彼には社会の同調圧力=悪、そこから逃れる生き方=善という強力なイデオロギーがあり、そこに固執しているように見える。しかも、この記事の初めに書いたことですが、批判を十把一絡げに「出る杭を叩く行為」=同調圧力と同一視して、うまく取り入れることができなくなっている。みんなそれに気づいて飽き始めてるどころかうんざりし始めてるので、このままでは一発屋で終わっちゃうんじゃないですかね。あんなに本読んでるのにね。

まとめ

 ついついイケダハヤト氏の話にもどってしまってまとまらなくなったので、最後にもう一度まとめておきましょう。1〜3はやまもとさんが主張しているとおもわれる論点、最後の4はそこから私が考えて付け加えた論点です。

  1. 我々はバカなので、完璧な文章を書くことはできない。
  2. それでも、出来る限り丁寧な文章を書かなければあらない。
  3. 丁寧な文章を書くということは、書いた文章に責任を持つということ。
  4. 責任を持つということは、批判に対して謙虚であるということ。
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 我々は皆バカであるという話は、次の二つの過去記事と関連しています。

 それから、イケダハヤト氏の無責任さに関しては、文中でも過去の記事に触れたhase0831さんの今回の件に関する記事を読まれることをおすすめします。