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長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

「啓典宗教における神の絶対性について」はヤバい

とにかく致命的に粗いです。論理的な飛躍も随所に見られます。ちょっと勉強した大学1年生が作ったメモ、といったところだと思います。最初見たときツッコミ入れるまでもないだろと思ってスルーしたのですが、ブコメで称賛されてるのを見て危機感を覚えたのと、常日頃、自分が適当なことを書いてしまった時は誰かに訂正してほしいと思っているので、ちょっとだけツッコミを入れておきます。

啓典宗教における神の絶対性について

まず、この表題が間違っています。本当に言いたいことはこれじゃないはず。これについてはあとからまた問題にします。

ユダヤ教ならびにその影響を受けた宗教(キリスト教イスラム教)を啓典宗教と言います。

「啓典宗教」? いきなり怪しい。この言葉は使わないほうが良いと思います。理由の第一は、これがイスラム教の術語で、あまりニュートラルな言葉ではないということです。「啓典」という言葉は、「キターブ」の訳語として用いられ、旧約聖書福音書コーラン等を具体的に指しています。(参考:キターブ - Yahoo!百科事典)。諸宗教にニュートラルに使うこの増田の用法なら、なぜかイスラム教の立場に立ってしまう「啓典宗教」ではなく、「啓示宗教」の方がよいのではないでしょうか。

「啓典」という言葉を使うことのデメリットはもうひとつあります。それは、「聖典」や「教典」との区別が曖昧になってしまうことです。ここでは「啓典」という言葉は一神教と結びつけるために用いられています。しかし、「啓示」としないことで「典」を強調しているというふうに理解されてしまうと、一神教以外の聖典を持つ宗教、たとえば仏教なども連想されてしまいます。

啓典宗教の特徴は、神が唯一絶対のものであると規定しているところにあります。

違います。くどいようですが「啓典」はイスラム教の言葉ですから、「啓典宗教の特徴」と説き起こされると、アッラーの啓示を伝えてた聖典を持っていることが共通の特徴となります。また、「啓示」で読み替えても、「啓示」という言葉は、「人間の自然的本性に基づいて宗教的神秘ないし神を認識しうると主張する自然宗教、理性宗教と対比」されて用いられるものです(参考:啓示 - Yahoo!百科事典)。つまり、「啓示」ということと、一神教ということに本質的な結びつきがあるわけではないのです。増田の論旨であれば、啓典や啓示というところから書き起こすのではなく、一神教というところから書き起こすべきだったのではないでしょうか。

絶対と言うのはまず第一に宇宙論的存在証明における価値や原因の起点と言う意味を持ちます。

違います。少なくとも、これが「絶対」という言葉の第一義ではありません。また、「宇宙論的存在証明」という言葉の使い方が非常に曖昧でミスリーディングです。さらに、「価値や原因の起点」という表現は意味不明です。「起点」という言葉は運動にふさわしいのであって、「価値」にはふさわしくありません。では「原因」の方はどうかと言うと、それを言うなら「因果系列の起点」でしょう。「原因」は因果の起点のことですから、「原因の起点」では意味を成しません。この箇所で言いたいことを言うだけなら、啓典どころか「唯一絶対の神」から出発する必要すらなく、「価値秩序の頂点にあって善悪を規定し、また因果系列を遡った第一の起点にあるものは、たとえばキリスト教においては「神」と呼ばれる」くらい書いておけばよかったのではないかと思います。

次の政府に云々も問題ありますが飛ばします。

これが例えば徳川幕府では、将軍に権威があるのは天皇によって任命されているからであり、天皇に権威があるのは神によって国主たることを命じられているから、という理屈になります。

なんで啓示宗教の話をしてきたのにいきなり徳川幕府の話になります? ここで出てくる「神」はさっきまで論じていた唯一絶対神とは違うと考えざるを得ないでしょう。ここで議論は完全に破綻しています。

もちろん、言いたいことはわかります。政治権力というのは、その正当性の保証を外部に求めることが多い、と。しかしそれならば、こちらから論じ始めるべきだったのです。そして、その例として徳川幕府を挙げてもいいし(ただ、ここで明治の国家神道ぽい概念を持ってくるのはだいぶ怪しくて、儒教の話をしたほうがいいんじゃないかとは思いますが)、初期近代の王権神授説とかを挙げてもいいし、イスラム教のスルタンとカリフの話をしたりしてもよかったのではないでしょうか。

こう考えると、実は最初からテーマは神ではなくて、統治機構の権威はどこから来るのか? という話であったということがわかります。これについて、外から権威を持ってくる場合と、内から権威を作り出す場合(つまり民主主義)がある、というふうな論旨にしたかったのではないでしょうか。

ちなみに、この結論は間違ってると思います。独裁か共和制かという話と、汎神論の話は全然繋がりません。私見では、「民主主義」の権威はまさに「デモクラシー」の理念そのものの崇高さから、つまり「外」から得られているという感じがします。「民主主義そのものが民衆に支持されて成り立っている」というロジックであれば、絶対主義だってそれが神の意に即しているのだということを「民衆が判断して支持した」からこそ成り立ったとも言えちゃうわけで。このあたりは、道徳的な善悪の基準が神になってしまうという話と、神に訴えて統治機構の正当性をアピールするという話を混同して議論をすり替えてしまったところから出てきた誤りという感じがします。

大学1年生のレポートみたいな文章に踊らさないほうがよいですよ、というお話でした。書いた人、目のつけ所はよいと思うので、これからちゃんと勉強してね。

※追記:元記事消えちゃったんですね、悪いことしたかな…。