長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

「どん底からでも努力次第で再スタートできる」なんて嘘に決まってる

今週大量のブクマを集めた以下の二つの記事。

気づいてる人は気づいてると思うのですが、この二つ、好対照をなしています。つまり、前者は、

上を見て後悔してたらどの立場でも常にそんなものです。
「もっとこうしてれば良かった」にはキリがない。

でもそこに気づいてから、、
自分に配られたカードがストレートフラッシュではなく、
条件最悪のブタだった事に気づいてから
そこからどう展開していくかと動くのが本当のスタートですよ。」

と述べ、「弱者のあなた」の見方をする素振りを見せつつ、スティーブ・ジョブズ堀井雄二アーノルド・シュワルツェネッガーなんかのフェニックス的エピソードを紹介し、「いろいろ締め切りに遅れた時こそ本気を出せるんじゃないでしょうか?」と呼びかけます。

 しかし、この呼びかけには、ブコメでも指摘されていることですが、「そんな成功者の例を出されても…」という疑念がつきまといます。そりゃジョブズは失敗してからもすごかったかもしれないけれど、それができたのはまさに彼がジョブズという天才だったからであって、という。

 MK2さんの記事は、渡邉美樹への疑念という仕方で、はからずもこの疑念をより明確に示したものとなっています。

もっと全国民が死力を尽くしてがんばれば国のトータルのレベルは上がるのに死力を尽くして働かないとはなんたる怠惰な国民だ。豚は残飯を食えですか。このお荷物をどうやって我々のレベルまで引き上げてやろう。すばらしく勤勉な国民を創出し、アジアの覇権を握り世界を支配する経済力を手に入れ、豊かな日本、強い日本を実現するのだ。で、アレルギー体質でフルタイムで働けないうちの奥さまを抱えた俺は日陰者ですよ。非国民ですね。

死力を尽くして頑張れば、状況は好転できる。日本も再浮上できる。この考えは、「どん底に追い込まれても、死力を尽くせば再浮上できる」というメッセージと通じ合います。「死力を尽くせば再浮上できる」というメッセージで元気を出せる人は出せばいい。でも、出せないひとだっている。「死力を尽くせば再浮上できるはず」という温かいメッセージは、死力を尽くせないひとたちにとっては、「あなたがが再浮上できないのは、単に努力が足りないからだ」というメッセージに転じてしまいます。

 この苛烈さは、単に渡邉美樹という人の個人的な資質の問題ではなく、現代社会そのものが抱え込む矛盾であるとも言えるかもしれません。佐藤嘉幸は、後期フーコーの思索から新自由主義への批判を取り出そうする議論の中で次のように述べています。

現代の新自由主義的統治において、まさしく市場原理を内面化した「自分自身の企業家」[つまり、自分の生活の糧を稼ぐための「企業」としての個々の労働者自身]による自己のマネージメントが求められている。終身雇用という慣行の撤廃、能力別給与の導入、社会保障の縮減は、ますます自己のキャリアを事故によって立案、管理し、自己の人的資本を高めてさらなる地位の向上を目指す、といったセルフ・マネージメント型の自己統御を促進することになる。こうした統治のスタイルにおいて、市場が提示するような自己統御システムに適応しうる者はさらに上の地位へと進み、適応しえない者は容赦なく社会の外に打ち棄てられる。(『新自由主義と権力――フーコーから現在性の哲学へ』, 人文書院、2009年、pp. 50-51)

 私は、ふがいないことではありますが、これをもって新自由主義をぶっ壊せとか、そこまで責任を持って言えるだけの勇気も知識も持ちあわせていません。まして、この危機意識に従うことこそ生存への本能なのだみたいな、内田樹自然主義に至っては、それはそれで全体主義に陥りかねない危険をもはらんでいると思います。しかしながら、現代の社会がこのような危険を孕んでいること、この危険の象徴として渡邉美樹という人が現れていること、そして、MK2さんのような指摘が、この危険への拒否反応として現れていることは、気づかれるべきであろうと思います。

 出来の悪い労働者である我々にとっては、どうにも生きづらい時代になってしまいました。どこかに解決策があると信じたいです。

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ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)

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新自由主義と権力―フーコーから現在性の哲学へ

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