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長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

ホッテントリで振り返る、「承認欲求」論の歴史(06~08年)

はじめに

読んでて、そもそもどういう「承認欲求」のことを言っているのかよくわからないし、それを夢とか自己愛とかとアクロバティックに繋げられてもなんとも言いがたい、というのが正直な感想でした。ういにゃんさんのツイートを受けて書かれたんじゃないかなと邪推しておるのですが、具体的な場面に沿って確認してみないとうまくあてはまるかどうかわからないな、と。

それはそれとして、じゃあ「承認」という言葉について、どんなふうに遣われてきたのか、そろそろまとめがあってもいいんじゃないかなと思って調べてみました*1。調査歩法として、「承認欲求」ではてなブックマーク検索して、100ブクマ以上の記事を眺めつつ、主観も交えながら目星をつけて、周辺の記事をたどってまとめました。なぜ08年までかというと、黎明期が見れて面白いというのと、単純に古いほうからまとめていったら08年で力尽きたからです*2。読む方もたぶんこれくらいが限界だろうなと考えました。余裕があったら10年以後も書いてみたくはあるのですが、とりあえず「ゼロ年代編」ということで。

本論はちょっとダラダラした考察になってしまうので、はじめに要点だけまとめておきます。

  • 「承認欲求」がホッテントリに初登場するのは06年。初めは「非モテ」との関わりで論じられていた。
  • 現在と同じ用法が登場するのは07年。
  • 「承認」の語は、案の定というべきか、「人と交流する」「アイデンティティを認める」「社会的に高い評価を受ける」「愛される」くらいのニュアンスで多義的に用いられている。

それでは以下、メモ書きふうになってしまいましたが、時系列でまとめてみます。

「承認欲求」の登場(06年)

初めて「承認欲求」に関わるホッテントリが登場するのが06年。当時盛んだった「非モテ」に関する議論と結びつけながら論じられているのが特徴です。特に宮台氏の議論は、「男性」のみにあてはまるとされていて、近年の濫用される「承認」とは趣が異なっています。しかしながら、前者の記事では「肯定的な評価」、後者では「ありのままを認める」という、現在の用法につながる二つの核は既に登場しています。以下、リンクと適宜引用を。

宮:生身の人間関係には全体性があるの。たとえば性格や振る舞いにも肯定面と否定面とが表裏一体あって、それらが合わさって人格になってる。人間関係もそうで、不愉快なもの、不幸なもの…全てを含めて初めて現実のドラマが成り立つ。悲劇がドラマの不可欠の部品だと理解することが、全体性に開かれた態度なの。全体性を踏まえて理想を目指すのが本来あるべき形だよ。ところが萌えにおける恋愛は全体性と何のつながりもない。「理想のコならこんな僕でも認めてくれる」って、現実にあり得ない「承認幻想」なの。
ミ:「こんな僕でも」ってなんだかエヴァンゲリオンっぽいにゃあ。
宮:その通り。遡ると、73〜75年頃に流行した、乙女ちっくと呼ばれる少女漫画がルーツだね。性愛が急に自由になってどうしていいか分からなくなったコが「乙女ちっく」にすがった。でも、女のコが性愛に慣れた76年以降は、「こんなあたしでも…」という承認幻想は幼児向けだけになったの。この性別を入れ替えたのがエヴァ。ところが女のコは3年で承認幻想から卒業したのに、男のコは10年しても卒業しない。幼児向けの紋切り型を追求し続けて、現実の女のコを「理想と違う」と批判するわけ。

宮:ちょっと頭を切り換えりゃ生身の女のコと物欲ゲームじゃない別のゲームができるのに。具体的にはね、女のコは理解を求めてるから、理解してあげる力を持てばいいだけさ。理解する度量をつけるには、承認欲求を取り下げる必要がある。それができないから萌えが増えるの。とにかく昨今は、承認を求める男のコと、理解を求める女のコとの、ミスマッチ。男のコの幼児的な承認欲求は、成育環境を変えない限り、収まらないだろうな。

有村悠ニコニコ動画ごときで満たされるカジュアルな承認欲求など要らぬ 」(07年)

07年12月に「ニコニコ動画ごときで満たされるカジュアルな承認欲求など要らぬ」という有村悠さんの記事があったようで、それをめぐって熱を帯びた議論がなされています。「非モテ」との関係はあるものの曖昧になり、現在と同じような使い方がなされていると言ってよさそうです。現在では削除されていて確認できませんが、承認関連のホッテントリ全体を見た時圧倒的多数の記事が含まれていたシロクマさんがここで登場してきていることからも、ここでの「承認」概念が現在に直結していることが伺える。

もう少し細かく見ていくと、シロクマさんの記事では、「承認欲求がない」ということと「対人関係が必要ない」ということを重ねて論じた箇所があります。ここでは「他者との交流」と「承認」がほぼ同義に用いられています。しかし同じ記事に、「職場や社会で承認欲求を満たしていこうというエネルギーが本人を飛躍させていく」という表現もあります。こちらでは社会的な評価のようなものを指して「承認」と言われているのではないかと思います。また小飼弾さんは「私を私として認める」という意味で用いています。つまりこの時点ですでに、「承認」という言葉の意味内容は、現在と同様の曖昧な様相を呈しています。

もう一つ、興味深いのは、「承認欲求」という言葉いすでにネガティブなニュアンスが含まれていることです。削除されていて確認不可能ですが、今読める記事から推定するに、ここでの有村さんの記事の時点で、「承認欲求」がマイナスのものとして捉えられていたようです。「いつの間にか罵倒語になった」というよりは、(すくなくともはてな界隈では)はじめからマイナスイメージを伴った語として広まっていたようです。

y_arimさんとは正反対っぽいですが、「人と人との間で生きているのが私達で、一つ一つの営為には他人からの承認に関する執着が幾らかなりとも埋もれているのが人間だ」、と私はいつも考えています。そして実際、承認に関連した執着を滅却しきった人を、私はあんまりみたことがありません*1し、仮にそんな人がいたとしたら、きっと人のあまりいない所に隠遁しているんじゃないかな、と思います。少なくとも沢山の人の目に触れるインターネット空間で言及活動に精を出す、ということは無さそうです。本当に承認欲求が滅却出来ちゃった人ならば、何事にも言及せず、対人関係も必要とせず、生き仏のような境地に安んじるのではないでしょうか。

承認欲求が極端に強くて捨てハンにちょっとdisられただけでもスルーできない人もあれば、身の回りの人に日常的に承認されているが故に、幾らネット上でdisられてもへっちゃらという人もいます。またネトゲ廃人ネトゲの世界だけで承認欲求を満たすようでは社会適応が大きく揺らいでしまうでしょうが、ITベンチャーの職場で頭角を現していく人などは、職場や社会で承認欲求を満たしていこうというエネルギーが本人を飛躍させていくということもあるでしょう。コンテンツクリエイターの人達なども、創作へのエネルギーの一部が承認欲求に由来していたり、ファンレターが次の作品への駆動力になったりということはあるんじゃないでしょうか。

ニコニコ動画は、承認欲求、すなわち「私を私として認めろ」という場としては最低とは言わないが、かなり非効率な場だ。「私を私として」認めるためには、「私でない」ものが「私」とくっきり別れてなければならないが、ニコニコ動画では、その動画が誰のものかすらつまびらかではない。

Thir「非承認型社会「日本」へようこそ」(08年)

08年6月、「非承認型社会「日本」へようこそ」という、爆発的な人気を博したThirさんの記事(削除済み)があり、これを受けて記事が量産されています。Thirさんは以下のように「承認」を定義していたようです(元記事が消えているので、やむなく小飼弾さんの記事より孫引きした。)。

ここでいう「承認」とは、自らが他の誰とも代替不可能な存在として認められることを指す。自らの物語・生き様が他者のものとして回収・吸収されることなく他者のそれと連結され、社会において一つの存在として認められることと同義である。

これを受けて批判したり、なんとなく自分なりに解釈したりしながら、思い思いの議論がなされている、というのが、このときの状況です。シロクマさんはここでマズローに言及していますが、実際には07年の時点と同じ多義的な仕方で「承認」の語を用いているように思えます。

私が言う「承認」は、ここまで「大げさ」ではない。「他の誰とも代替不可能な存在として」という付帯条件は抜きに「認めた」のであれば「承認」である。とはいえ、いちいち「thir的承認」というのも「弾的承認」というのも面倒なので、ここは私が譲って、「弾的承認」は「接続」(link)と言い直すことにする。

現代日本が非承認型社会なのか、だいたい社会が承認を担保してくれることを期待してる奴ってキモくね、とか思うけど。承認って妙にネットワーク効果があるよね。誰かから認められ、そういう評判があると他の誰かからも認められやすいし、誰かから認められたという自信に裏打ちされた行動が、他からの承認を勝ち取ることもある。だから簡単にポジティブ・フィードバックでベキ法則風に分配されてしまうし「どーせ承認されないし」的ジタバタをやったところでハリネズミ症候群となってしまったり、そもそもエントリーポイントどこ?的な話はある。

なお、このまとめ記事では、混乱をできるだけ避けるために、A.マズロー欲求段階説にある用語「承認欲求」「所属欲求」「自己実現欲求」に統一したニュアンスで書いていくこととする。以下のリンク先の文章は「承認」「承認欲求」がそれぞれで微妙に違っているような気がするが、この記事クリップ上では、一律にマズローの欲求の階層を念頭に置いたうえで言及してみる。

それがその人の人生の物語のなかに位置づけられたとき、その行為をなした人は代替不可能な個人として承認されたと言えると思うのだ。

「承認」とジェンダー

なお、Thirさんの流れとは直接関係ありませんが、以下の増田の記事は興味深いので貼っておきます。「承認」の意味自体が変わっているので単純に比較はできませんが、「男は承認を求め、女は理解を求める」と論じていた宮台氏と正反対の言説になっているところに注目してください。

モテ、非モテを問わず、女は男よりも「被承認欲」というものが強い。それってつまり、「あたしは他の人と違う!」と思いたい欲求のことだ。

秋葉原通り魔事件

もう一つ、秋葉原通り魔事件にも言及しておくべきでしょうか。これについての記事は意外に少ないが、以下のものが見つかりました。「承認」の意味自体には、大きな変化はありません。この記事では「承認」は「認められる」という要素と「肯定される」という要素から成るものとして理解されているようです。

電車男も、Kと同様、私的領域での承認を求めていた。そして物語を語る中で、ネット上の無数の匿名の人たちに、その存在を認められ肯定される。こうした物語は「2ちゃんねる」にはいくつもあり、個人的な人生の告白が、無数の匿名の人たちに承認され、続々と書籍になっている(註5)。そこでは「2ちゃんねる」が、個人の苦悩を意義あるものとして認める、承認の共同体として機能しているのだ。一定数の非モテ男性の救いは、ここにあるかもしれない。

まとめ

以上、06~08年にホッテントリ入りした「承認欲求」関係の記事をざっと眺めてみました。Thirさんの記事とか懐かしいですね。

頑張って全部読んでいただいた方には、「承認」という言葉が節操無くいろんな意味で遣われているということは十分すぎるほど分かっていただけたのではないかと思います。この言葉自体について論じるとき以外には、「承認」なんて言葉はつかわずに議論したほうがいいでしょう。Rootportさんの記事も承認なんて言わずに「自己愛」だけで論じられたんじゃないかなという気もしないでもないです*3

*1:そういった考察が全くないわけではないのですが(「承認欲求を満たす」ことがなぜ罵倒語のように機能するようになったのか? - Togetterまとめ「承認欲求」という言葉の歴史的起源をさぐる - Togetterまとめ)、あまり実際の用例にもとづいておらず、印象論に留まっているように思います。もちろん単なる私の調査不足かもしれませんが。

*2:ちなみに09年は100ブクマ超えの記事がありませんでした。一端下火になったあと、TwitterFacebookと関連付けられて復活してきたのかもしれません。

*3:それだとブクマもらえないのがつらいところ。