読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

「輝きの向こう側」は希望ではない――問題作としての劇場版アイドルマスター

ちょっと乗り遅れ気味ですが、先週プチ炎上があったようで。

やたらと批判されていますが、こういう感想を持つ人が出てくるのは当然だと思っています。しかし、それはあの映画、『輝きの向こう側へ!』が、駄作だったということを意味しません。そうではなくて、あの映画が非常に「尖った」作品であったということを示していると考えます。

 あの映画がいかに尖っていたか、ハッピーな雰囲気と裏腹に、いかに重くるしいテーマを扱っていたかということについて、以前に一度書きました。

繰り返しになってしまうところもありますが、今日は、いかに尖っているかという視点から、この作品について、もう一度書いてみます。

アイマス劇場版は「ナッシュ均衡」を目指したか?

劇場版公開同時、この映画は「パレート効率的ナッシュ均衡」を目指したものだ、という論評がありました。

つまり、今回の劇場版アイドルマスターは、特定の人が10の効用を得られるのではなく、全員が7の効用を得られる、つまり70%の人から100点をもらうのではなく、100%の人に70点をもらう映画だったと思うんですね。

765プロファンも、ミリオンライブファンも、あるいはシンデレラガールズ、ジュピター、876プロのファンも、全員がある程度納得できる内容だったなと思います。

 私は、この評価は誤りであったと思います。現に、今回のはっぱPの記事は、このファミエリさんの見解への端的な反証事例となっています。

 ところで、この反証事例の存在からは、以下の二つの結論を導く事が可能です。

  1. アイマス劇場版はナッシュ均衡を目指したが、失敗した。
  2. アイマス劇場版はナッシュ均衡など目指していなかった。

私はこれらのうち、後者が正しいと考えています。アイマス劇場版は、みんながハッピーになれる地点を目指してはいなかった。もちろん様々な層への配慮はあったでしょうが、本質的には非常に「尖った」作品であった、というのが、私の考えです。そして、このことは、「輝きの向こう側へ!」という副題に象徴されています。

「輝きの向こう側」とは何か

この映画を理解するにあたって決定的に重要なのは、その副題をきちんと「読む」ことです。「輝きの向こう側へ」という副題は、何を意味しているのでしょうか。まず、「輝き」と、その「向こう側」について考えてみましょう。

 「輝き」とは何でしょうか。この言葉は、永くアイドルマスターという作品のキャッチコピーであった「きらめく舞台で、また逢える。」の、「きらめく舞台」を連想させます。それでは、アイマスにとって「きらめく舞台」とは何か。それは、エンディングを飾るものです。また、劇場版のアイマスは、一度はハッピーエンドを迎えたアニメ版アイドルマスターの続編、という性格を持っています。これらを踏まえると、「輝き」という言葉は、「ハッピーエンド」のメタファーとして理解できます。

 そうだとすると、その「向こう側」は? それは、「ハッピーエンドのその後」だということになりそうです。ここに、この映画が背負った困難があります。

 そもそも「ハッピーエンドのその後」という言葉には、不吉な響きがあります。「物語は幸せな場面で終わるけれど、人生はその後も続くのでしょう?」と、ハッピーエンドに疑問を投げかける、そんなニュアンスを感じさせる言葉です。たとえば 、アイマスとは全く関係ないところで、以下のような記事が見つかりました。

これを見れば、私が不吉な響きということで何を言いたいか、ご理解いただけるのではないかと思います。

 こう考えると、「輝きの向こう側」という言葉は、非常に不吉な言葉なのです。この言葉を副題に用い、主題に据えたことで、劇場版アイドルマスターは、その不吉な響きをどう処理するかと言う問題、いわば「向こう側問題」を抱え込むことになりました。この問題を積極的に抱え込むことにしたという意味で、『輝きの向こう側へ!』という作品は、非常に挑戦的かつ野心的な作品であったと言えます。

「輝きの向こう側”へ”」であることの意味

劇場版アイドルマスターは、この「向こう側問題」をどう処理したのでしょうか? その答えもまた、タイトルの中にあります。”へ”の一文字によって、というのが、その答えです。「輝きの向こう側」そのものではなく、「輝きの向こう側”へ”」のプロセスを書くことで、「向こう側」を想像させること。これが、あの映画の戦略でした。

 作中には、「輝きの向こう側」が暗示されるシーンは非常に多くあります。「世代交代」というテーマもそうでしょう。プロデューサーの渡米も、「向こう側」を暗示するためにある、と考えなければ、最後に帰国していることもあり、不要なエピソードであったように感じられてしまいます。そして、夕日のシーン。あのシーンでも、描かれているのは「輝き」のみ。「その向こう側には何があるんだろう?」という問いには答えが与えられません。

 これは、非常に大胆な戦略です。この作品は、「向こう側問題」に答えを与えてはくれません。ただひたすら、問題の存在を暗示して終わる。そして、「向こう側」を見に行く役割は、視聴者である私達に委ねられる。つまり、「向こう側」を見るつもりで、「向こう側には何があるのか?」という問いへの「答え」を見るつもりで行くと、「向こう側には何があるんだろうねえ?」と、その「問い」をそのまま投げ返されて帰ってくることになる。それが、劇場版アイドルマスターという作品なのです。

 実はこの点は、件のはっぱPが不満点として挙げておられた点でもあります。

グリマス勢の問題を解決し、夕日を見るシーン アニマス特有のポエム空間はらしくていい
ただ、ライブの時みたいに綺麗で光の海を渡って行く、その向こうは一体なんなのかと前フリしていたのにも関わらず ライブ中アイドル達が見ているものが見えなかった ただのライブ映像だった

このはっぱPの指摘は、非常に正しい。私はそう思います。輝きにはさらにその向こう側があるけれど、そこに何があるのかはわからない。「その向こうは一体なんなのか?」という前フリだけを、何度も何度も繰り返して終わる。これを不満に感じる観客がいても、不思議ではありません。しかし、私はそこにこそ、この映画の挑戦を見ました。

 この大胆な挑戦のゆえに、はっぱPのように振り落とされてしまうファンもいた。しかし、この挑戦があったからこそ、『輝きの向こう側へ!』という作品は、ただアイドルが可愛いだけじゃない、不思議な魅力を持つ作品になったのではないでしょうか。