なぜ音楽は魔法ではないのか、あるいは大森靖子さんへの愛してる.com
大森靖子さん。去年の1月ごろ、なんとなく新しい音楽が聞いてみたいと思って、ネットで紹介記事を見て、そのまま2日ぐらいぶっ通しで動画漁りまくって再生しまくって気づいたらすごいファンになっていたのでした。誰それ初めて聞いたって人はとりあえずYouTubeでMV見るといいんじゃないかな! あと今月アルバム出るから買おう!
さてさて、そんな大森さんですが、その代表曲の一つに、『音楽を捨てよ、そして音楽へ』があります。今日はこの曲から始めて、大森さんの魅力を紹介したいと思います。
この曲の動画はたくさん上がっているのですが、ここでは2013年のとてもかっこいいライブを貼り付けておきましょう。いいから見てくれ。かっこいいから。
さて、この曲の歌詞で最も印象的なのが、「音楽は、魔法ではない」というフレーズ。何度も何度も繰り返されるこの言葉には、どのような意味があるのでしょうか? なぜ、音楽は魔法ではないのでしょうか?
この記事で私が提案したいのは、この言葉には、「音楽に「魔法」という安易な言葉をあてがって分かった気になるのをやめよう」という意味が込められている、という解釈です。分かったきになるのはやめて、ちゃんと考え続けよう、というメッセージが、この曲からは感じられてならないのです。もちろん歌詞ですしひとつの解釈だけにとらわれる必要はないのでしょう。それでも、このような含みを見ることで、この曲を、そして大森靖子の音楽を、より深く味わえるのではないかと思います。そして、これを通じて、大森靖子の魅力の源泉の一つを発見することもできるはずです。
このように解釈したい最初の理由は、「枠」についての彼女の発言です。いろいろなところで関連する発言がありますが、ここではメジャーデビュー前のインタビューを引いてみましょう。「Zeppでやって、アイドルのイベントに出て、このままどんどん一般層に訴えかけていくのかなと思っていたんです。だから、今度やる企画が戸川純さんとの2マンなのは少し意外でした。新宿LOFTっていう場所も戸川純さんていう人も、どっちも所謂サブカル的な位置にあるじゃないですか」と話すインタビュアーに、大森靖子は次のようにシンプルに答えます。
どこの枠とかまじどうでもいいです。自分が魅せたいおもしろいこととか、お客さんがみたいんじゃないかってものをやってるだけです。
「どこの枠とかまじどうでもいい」という発言、まじかっこいいですね。YouTubeにあるシブカル祭での「渋谷もカルチャーもどうでもいいですからね、まじで」という発言を彷彿とさせます。うん、ただかっこいい大森靖子の動画を貼りたいだけなんだ、ごめん。
まあそれはそれとして、ここで大森靖子は、彼女自身と彼女の音楽を「枠」にはめて理解することの不毛さを指摘しています。このインタビューは数年前のものですが、この考えは現在でもあまり変わっていないようです。例えば先日、荻上チキのラジオに出演した際には、「大森さんの音楽のジャンルは何ですか」というリスナーの問いかけに、「カラオケ世代なんで、ジャンルとか考えてないです」と即答していたのが印象的でした。これらの発言からは、既存の枠にはめて分かった気になることに彼女が全く価値を見出していないということが読み取れます。これが、「音楽は魔法ではない」というフレーズに、そして、自分の目で見て耳で聞いて頭で考えよう、というメッセージに結実しているように思えるのです。
もう一つ、私の解釈を強めてくれる手がかりを挙げましょう。それは、彼女のマスコットである熊のぬいぐるみ「ナナちゃん」の特技が「処女膜を再生する魔法」だということです。(これは、「処女膜再生ステッキ」というペンライト状のグッズの元ネタにもなっています。また、『ナナちゃんの再生講座』という曲もありますが、ここで再生されているのももちろん処女膜でしょう。)しかし、なぜ、ナナちゃんが使える魔法は処女膜再生なのでしょうか? 私はここにも、枠にとらわれるのをやめよう、というメッセージを見いだせるように思います。
もう少し詳しく説明しましょう。「処女」という言葉は、1人の女性を分かった気になれるカテゴリーとして使われることがあります。しかし、よく考えれば、一度セックスしたかしないかで、1人の女性を判断することなどナンセンスでしょう。そんなつまらない枠にあてはめて判断するのはやめて、一人ひとりの人間の割り切れなさをきちんと見つめよう。どうしてもそんな膜一枚の状態が気になるのなら、いっそ魔法で再生できることにしてしまえばいい。初体験は無限にできることにしてしまえばいい。そうすれば、処女という枠にとらわれる必要がなくなって、一人ひとりの魅力をまっすぐ見つめて考えられるようになる。だから、ナナちゃんの魔法は「処女膜再生」である必要がある。このように考えられないでしょうか。
こう考えれば、上で見たインタビューでの発言と、ナナちゃんの魔法が「処女膜再生」であること、そして、「音楽は魔法ではない」という印象的なフレーズ、これらの三つは、一つの線でつながります。つまり、それらはいずれも、「分かった気になること」に対して、警鐘を発しているのです。
だからこそ、『音楽を捨てよ、そして音楽へ』は、「音楽は魔法ではない」と繰り返したあとで、最後に「でも音楽は」とだけ述べて、ぷっつりと終わるのです。「でも音楽は」の続きは何か? それを考える責任は、私たち聴き手一人ひとりに委ねられています。
大森靖子は昨年、妊娠・出産して母になりました。これからの彼女は「母親」という「枠」に当てはめて見られることもきっと増えるでしょう。しかし、そのような「枠」で理解されることは、彼女が最も避けようとしていることです。これからも彼女はきっと、その優しさで、「母親」という枠にはめることに意味なんてないんだよ、というメッセージを発し続けてくれることでしょう。
「沼」というネットスラングの歴史
昨年辺りから、「沼」というネットスラングが大流行していますね。たとえば昨年12月に投稿され、3万を超えるRTを獲得している以下のツイート。
オタクが沼にハマるパターンっていくつかあるけど、よく見るのはこんな感じです。 pic.twitter.com/KTaGUZd4a8
— よう #365日の百合 残り28日 (@oshiroi_you) 2014, 12月 23
この「沼」というスラングは、「沼にハマる」という語感から、あるジャンルにハマって抜け出せなくなる様子を表す言葉としてよく使われています。今回は、この言葉がいつごろから使われているのか気になって調べてみました。
遡ってゆくと、昨年2月には既に、この言い回しに反発する記事が書かれています。
(女性オタ界隈で)好きなジャンルのこと「沼」って言うのが目につく
ジャニーズからアニメ作品まで、はまってるジャンルのことを「沼」と言うらしい。
沼というのは、ハマったら抜け出せずズブズブと沈んでいくから、というような意味がある。
ヒモに貢ぐ感覚が近いと思う。例えば「ガンダム沼」というふうに使う。
この記事から、この頃にはすでにこの言い回しがかなり広まっていたこと、また、この表現が、昨年前半頃までは主に女性向け方面で広まっていたということがわかります。(現在でも女性向けの方が用法は多そうですが、男性向けでも「沼」という表現を使うことは珍しくなくなっていると思います。)
それでは、女性向け界隈での用法が「沼」という表現の起源なのでしょうか。実は違います。もっと遡って時期を指定しつつGoogleに聞いてみると、この表現を最も古くから用いていたのは、カメラ界隈、いわゆる「レンズ沼」の方面です。レンズ沼という表現の歴史はかなり古く、2000年代前半には既に一般的に用いられていたようです。Googleで見つけられた限りでの最古の用例は、2000年11月に書かれた次の記事に出てくる「ライカ沼」でした。
ライカオヤジとは、また少し趣向が違うようだが、私はまだライカの方が使ってみたい気分になる。安ければひとつ欲しいと思うが、ライカ沼にはまろうとは思わんな。
http://joe-spot.com/report/rep20001115.htm
この記事を書かれた方が新たに作った言い回しというわけでもなさそうなので、これ以前にも、インターネット上にアーカイブの残っていないところで、このような言い回しが用いられていたのでしょう。これ以上の起源は、それ以前からのカメラ趣味の方々に直接聞いてみるしかなさそうです。
というわけで、「沼」の起源は女性向けジャンルではなく、カメラ方面だということがわかりました。それでは、この表現はいつごろから、なぜ女性向けに広まっていったのでしょうか。
私が見つけられた限りでは、転換点になったのは、2013年前半に現れる「沼ドル」という表現のようです。もちろん「ハマると沼のようにズブズブと抜け出せなくなるアイドル」のことなのですが、面白いことに、これは初めは固有名詞(より正確に言えば確定記述)だったようなのです。沼ドルとはだれか。それは、嵐の大野智です。
大野智=沼ドル
こんな言葉がある一部では定着してきましたが、
つまり、大野智という人は、一度はまるとずぶずぶと抜け出せなくなっちゃうアイドルという意味で。
もれなく私もその一人です。だからこの言葉を聞いたときは言い得て妙だと思いましたよ。
なぜ抜け出せなくなるのか?
もっともっと知りたくて、深みにはまってしまう。
それはね、彼の言動があまりに小出し過ぎるからではないか?
この記事を見るに、今よりももっと多くのニュアンスを込めて、「沼」という表現が用いられていたようです。この、「大野智=沼ドル」という表現がジャニーズ界隈の一部で定着し始めたのが2013年2月。女性向けジャンル全般への爆発的な広がりのきっかけは、ここにあったと見て間違いないでしょう。こうして、レンズやカメラに限定して用いられていた「沼」という表現が、オタク趣味全般に関して用いられる道が開かれることになりました。この表現がこのまま定着するのか、一過性の流行語で終わるのか、興味深いところです。
武内Pの失敗に学ぶ、経営と教育の心理学
武内Pのテンション管理
期待・価値とモチベーション
前川みくの場合
本田未央の場合
プロデュースの心理学
*1:インターネットで読める比較的詳しい説明は、以下のサイトにあります。「期待理論」から、やる気を考える | モティペディア - Minagine キャリア・サポート
*2:本当はもう少し細かく説明すべきこともありますが、それを始めると誰も読まなくなってしまうのでかなり簡略化しています。
「輝きの向こう側」は希望ではない――問題作としての劇場版アイドルマスター
ちょっと乗り遅れ気味ですが、先週プチ炎上があったようで。
やたらと批判されていますが、こういう感想を持つ人が出てくるのは当然だと思っています。しかし、それはあの映画、『輝きの向こう側へ!』が、駄作だったということを意味しません。そうではなくて、あの映画が非常に「尖った」作品であったということを示していると考えます。
あの映画がいかに尖っていたか、ハッピーな雰囲気と裏腹に、いかに重くるしいテーマを扱っていたかということについて、以前に一度書きました。
繰り返しになってしまうところもありますが、今日は、いかに尖っているかという視点から、この作品について、もう一度書いてみます。
アイマス劇場版は「ナッシュ均衡」を目指したか?
劇場版公開同時、この映画は「パレート効率的ナッシュ均衡」を目指したものだ、という論評がありました。
つまり、今回の劇場版アイドルマスターは、特定の人が10の効用を得られるのではなく、全員が7の効用を得られる、つまり70%の人から100点をもらうのではなく、100%の人に70点をもらう映画だったと思うんですね。
765プロファンも、ミリオンライブファンも、あるいはシンデレラガールズ、ジュピター、876プロのファンも、全員がある程度納得できる内容だったなと思います。
私は、この評価は誤りであったと思います。現に、今回のはっぱPの記事は、このファミエリさんの見解への端的な反証事例となっています。
ところで、この反証事例の存在からは、以下の二つの結論を導く事が可能です。
私はこれらのうち、後者が正しいと考えています。アイマス劇場版は、みんながハッピーになれる地点を目指してはいなかった。もちろん様々な層への配慮はあったでしょうが、本質的には非常に「尖った」作品であった、というのが、私の考えです。そして、このことは、「輝きの向こう側へ!」という副題に象徴されています。
「輝きの向こう側」とは何か
この映画を理解するにあたって決定的に重要なのは、その副題をきちんと「読む」ことです。「輝きの向こう側へ」という副題は、何を意味しているのでしょうか。まず、「輝き」と、その「向こう側」について考えてみましょう。
「輝き」とは何でしょうか。この言葉は、永くアイドルマスターという作品のキャッチコピーであった「きらめく舞台で、また逢える。」の、「きらめく舞台」を連想させます。それでは、アイマスにとって「きらめく舞台」とは何か。それは、エンディングを飾るものです。また、劇場版のアイマスは、一度はハッピーエンドを迎えたアニメ版アイドルマスターの続編、という性格を持っています。これらを踏まえると、「輝き」という言葉は、「ハッピーエンド」のメタファーとして理解できます。
そうだとすると、その「向こう側」は? それは、「ハッピーエンドのその後」だということになりそうです。ここに、この映画が背負った困難があります。
そもそも「ハッピーエンドのその後」という言葉には、不吉な響きがあります。「物語は幸せな場面で終わるけれど、人生はその後も続くのでしょう?」と、ハッピーエンドに疑問を投げかける、そんなニュアンスを感じさせる言葉です。たとえば 、アイマスとは全く関係ないところで、以下のような記事が見つかりました。
これを見れば、私が不吉な響きということで何を言いたいか、ご理解いただけるのではないかと思います。
こう考えると、「輝きの向こう側」という言葉は、非常に不吉な言葉なのです。この言葉を副題に用い、主題に据えたことで、劇場版アイドルマスターは、その不吉な響きをどう処理するかと言う問題、いわば「向こう側問題」を抱え込むことになりました。この問題を積極的に抱え込むことにしたという意味で、『輝きの向こう側へ!』という作品は、非常に挑戦的かつ野心的な作品であったと言えます。
「輝きの向こう側”へ”」であることの意味
劇場版アイドルマスターは、この「向こう側問題」をどう処理したのでしょうか? その答えもまた、タイトルの中にあります。”へ”の一文字によって、というのが、その答えです。「輝きの向こう側」そのものではなく、「輝きの向こう側”へ”」のプロセスを書くことで、「向こう側」を想像させること。これが、あの映画の戦略でした。
作中には、「輝きの向こう側」が暗示されるシーンは非常に多くあります。「世代交代」というテーマもそうでしょう。プロデューサーの渡米も、「向こう側」を暗示するためにある、と考えなければ、最後に帰国していることもあり、不要なエピソードであったように感じられてしまいます。そして、夕日のシーン。あのシーンでも、描かれているのは「輝き」のみ。「その向こう側には何があるんだろう?」という問いには答えが与えられません。
これは、非常に大胆な戦略です。この作品は、「向こう側問題」に答えを与えてはくれません。ただひたすら、問題の存在を暗示して終わる。そして、「向こう側」を見に行く役割は、視聴者である私達に委ねられる。つまり、「向こう側」を見るつもりで、「向こう側には何があるのか?」という問いへの「答え」を見るつもりで行くと、「向こう側には何があるんだろうねえ?」と、その「問い」をそのまま投げ返されて帰ってくることになる。それが、劇場版アイドルマスターという作品なのです。
実はこの点は、件のはっぱPが不満点として挙げておられた点でもあります。
グリマス勢の問題を解決し、夕日を見るシーン アニマス特有のポエム空間はらしくていい
ただ、ライブの時みたいに綺麗で光の海を渡って行く、その向こうは一体なんなのかと前フリしていたのにも関わらず ライブ中アイドル達が見ているものが見えなかった ただのライブ映像だった
このはっぱPの指摘は、非常に正しい。私はそう思います。輝きにはさらにその向こう側があるけれど、そこに何があるのかはわからない。「その向こうは一体なんなのか?」という前フリだけを、何度も何度も繰り返して終わる。これを不満に感じる観客がいても、不思議ではありません。しかし、私はそこにこそ、この映画の挑戦を見ました。
この大胆な挑戦のゆえに、はっぱPのように振り落とされてしまうファンもいた。しかし、この挑戦があったからこそ、『輝きの向こう側へ!』という作品は、ただアイドルが可愛いだけじゃない、不思議な魅力を持つ作品になったのではないでしょうか。
サイゾーウーマン「金原ひとみが「消えかけている」!?」は妄想
大好きな金原ひとみがホッテントリしていたので思わず筆を執る。元記事はあまりにもクソなんで、ブクマの方先に貼っときますね。
元記事はこちら。
記事の中に「出版業界関係者」が登場し、以下のように語っています。
「2011年に、自身の育児経験をもとにつづった長編『マザーズ』(新潮社)以来、新作は出ておらず、エッセイなどの連載もない状態です。『マザーズ』は、昨年末に文庫化されましたが、重版は一度もかかっていないと聞きました。初版は2万部ほどといわれていますが、人気作家・有川浩などは初版20万部刷ることを考えると、読者もどんどん離れているようですね」(出版業界関係者)
ブコメにもちょっと書きましたが、この記事に登場する「出版業界関係者」、たぶん存在しません。なぜなら、金原ひとみの最新作は2011年の『マザーズ』ではなく、2012年の『マリアージュ・マリアージュ』だからです。

- 作者: 金原ひとみ
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さすがに関係者でこの間違いはヤバい。関係者なんて存在せずすべてライターの妄想なんじゃないでしょうか。あるいは存在したとしても文芸に関わりない人でしょう。
ちなみに、なぜこんな間違いが生じたか、その答えはWikipediaにあります。
作品一覧のところを見てみましょう。
単行本
* 蛇にピアス 2004年1月、集英社、のち文庫、ISBN 9784087460483
* 初出:『すばる』2003年11月号。
* アッシュベイビー 2004年4月、集英社、のち文庫、ISBN 9784087461572
* 初出:『すばる』2004年3月号
* AMEBIC アミービック 2005年7月、集英社、のち文庫、ISBN 978-4-08-746252-4
* 初出:『すばる』2005年7月号
* オートフィクション(2006年7月、集英社、のち文庫、ISBN 9784087753646)
* 書き下ろし長編
* ハイドラ(2007年4月、新潮社、のち文庫、ISBN 9784103045311)
* 初出:『新潮』2007年1月号
* 星へ落ちる(2007年12月、集英社、ISBN 9784087748970)
* 星へ落ちる(『すばる』2007年2月号)
* (僕のスープ、サンドストーム、虫)
* 左の夢(『すばる』2007年11月号)
* 憂鬱たち(2009年9月、文藝春秋、ISBN 9784163285207)
* デリラ(『群像』2006年10月号)
* ミンク(『文學界』2007年1月号)
* デンマ(『文學界』2008年1月号)
* マンボ(SWEET BLACK STORY)
* ピアス(『文學界』2009年1月号)
* ゼイリ(『野性時代』2009年5月号)
* ジビカ(『文學界』2009年7月号)
* TRIP TRAP トリップ・トラップ (2009年 角川書店)
* マザーズ (2011年 新潮社)
漫画化作品
* 蛇にピアス(2004年12月、集英社、ISBN 978-4088652580) - 渡辺ペコによる漫画化
映画化作品
一見して分かる通り、これを見ると2011年の『マザーズ』以来、新作は発表されていないように見えてしまいます。ライターさんか、あるいは「関係者」の人は、きっとこれを見て2011年以来作品は出ていないと勘違いしたのでしょう。ネットの情報を信じるなんて愚かですね*1。
しかしこんなひどい記事でもゴシップ誌でネタにされて、ブクマもこんなに伸びるということは、金原ひとみまだまだイケる感じですね。軽く憤慨すると同時に、それ以上に嬉しくなったのでした。
ところで、以下は蛇足というかただの布教活動なのですが、読書好きだけど『蛇にピアス』はあんまりおもしろくなかった、という方、ぜひ『ハイドラ』か『TRIP TRAP』を手にとって見ることをオススメします。『ハイドラ』は「分裂する自己」という初期の金原ひとみのテーマが結晶した到達点を示す作品、『TRIP TRAP』はそれまでの思春期を題材にした小説に接続しながらもそこからの脱皮を果たした作品で、いずれも重要かつ読み応えのある作品です。たしかに金原ひとみは万人受けするタイプの作家ではないのですが、少なくとも『蛇にピアス』だけを読んで彼女のイメージを決めてしまうのはもったいない。金原ひとみが好きか嫌いか決めるのは、この2冊を読んでみてからでも遅くありません。『蛇にピアス』とは全く違う軽快な文体にきっと驚かれると思いますよ*2。

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マズローのesteemは「承認」か「自尊心」か?
前回の記事を多くの方にお読みいただきありがとうございました。そのおかげか、記事の中で言及していたシロクマさん(id:p_shirokuma)の目に触れ、ありがたいことに、いくつかの点に反論いただきました。
この記事では、いくつか反論を頂いた中の一点だけですが、応答したいと思います*1。また、応答するにあたって、マズローのesteemの訳語について、前回より詳しく比べましたので、記事の後半ではシロクマさんの反論を離れて、その点について書いています。
シロクマさんからの反論について
私は前回の記事で、「マズローの著書『人間性の心理学』の邦訳でも、「自尊心」という訳語が当てられている」と書きました。これに対して、シロクマさんから以下のような反論をいただきました。
(マズローの著書の邦訳には)ちゃんと承認の欲求って書いてあります。[…]シロクマ氏の引用から「自尊心という訳語が当てられている」と推測なさるなら、もうちょっと細かくチェックして欲しかったです。[…]これじゃあまるでシロクマ氏が勝手に承認欲求という造語をつくったかのようにも読み取れてしまう文章だったので、私は弁明しておいたほうがいいかなと思い、ここに書き記しておくことにしました。(マズローの本に「承認の欲求」って訳語は出てきますよ? 他 - シロクマの更地)
まとめると、私の主張は「esteemの本来の訳語は「自尊心」なのに、シロクマさんが勝手に「承認」という言葉を使っている」というふうにも読み取れてしまう、しかしそれは事実ではない、というのが反論の主旨です。
反論に応えるなら、私の意図はそのように指摘することではありませんでした。むしろ私が言いたかったのは、マズローのesteemには「承認」と「自尊心」の両方の訳語が使われているようだ、ということです。そのうちの「自尊心」の方が使われている箇所の例として、シロクマさんの記事から孫引きしました。「「自尊心」という訳語が当てられている」と書いたのも、「常に自尊心と訳される」ではなく、「この箇所では自尊心という訳語が当てられている」という意味でした。この点、多少誤解を招く書き方になっていたと反省しております。
マズローの「承認」と「自尊心」
さて、シロクマさんの反論からは少し離れてしまうのですが、前回の記事と今回の記事の前半でesteemには「承認」と「自尊心」の両方の訳語が当てられている、と書きました。しかし、これまでのところでは、これは事典などでの記述からの推測でした。前回の記事を多くの方に読んでいただけたこともあり、ちょっと無責任だったかなと思い調べてきました。以下はその報告です。
結論から言えば、合ってました。両方の訳語が使われていました。ただし、esteemは承認、self-esteemは自尊心、という仕方で訳語が使い分けられていました。
マズローの主著、邦訳では『人間性の心理学』というタイトルが付けられている本ですが、原題はMotivation and personalityという本です。幸運にも、Google Booksで、必要な箇所を読むことができました*2。
結局図書館では邦訳を入手できなくて、邦訳については相変わらずシロクマさんからの孫引きなのですが(すみません)、邦訳では「承認の欲求」について述べた箇所の最初は次のようになっているようです。
【承認の欲求】
我々の社会では、すべての人々(病理的例外は少し見られる)が、安定したしっかりした根拠をもつ自己に対する高い評価、自己尊敬、あるいは自尊心、他者からの承認などに対する欲求・願望をもっている。
承認欲求とは――マズローの著書から抜粋 - シロクマの物置
この箇所は、原文では以下のように書かれています(マーカーがついてるのはそのへんの単語で検索したからです。)。
とりあえずわかるのは「承認の欲求」は原文では"The Esteem Needs"であった、ということですね。さらに、邦訳で「評価」「自己尊敬」「自尊心」「他者からの承認」となっている箇所は、"evaluation," "self-respect," "self-esteem," "esteem of others"のそれぞれに対応することがわかります。とくにesteemということについて言えば、self-esteemは「自尊心」と訳されるのに対し、esteem of othersのesteemは「承認」と訳されています。
さらに、前回私が孫引きした箇所をもう一度引きましょう。
自尊心の欲求を充足することは、自信、有用性、強さ、能力、適切さなどの感情や、世の中で役に立ち必要とされるなどの感情をもたらす。
ここは、原文では次のようになっています(段落が変わってすぐのところです)。
これを見ると、the self-esteem needが「自尊心の欲求」と訳されたことがわかります。
以上からわかるのは、esteemが単独で出てきた場合には「承認」、selfを伴って用いられた場合には「自尊心」の訳語を当てるという方針がとられている、ということです。この訳し分けによって、二つの言葉の間のつながりは見えにくくなってしまいました。もちろん、翻訳は大変な作業なので、この点を持って訳が悪いとまで主張するつもりはありません。「二つの言葉のつながり」という点から考えれば問題のある訳でしたが、それを犠牲にすることでニュアンスを再現できるという判断があったのでしょう。
いずれにせよ、英語のesteemは日本語の「承認」とも「自尊心」ともきれいには一致しない、「なんとなく尊重されている感じ」としか日本語では表現できないような感情をふわっと指している、と言って良いと思います。