文化への態度
今回の事業仕分けで、「基礎科学研究」に関わる予算が大幅に削減される。このことで、広範な議論が巻き起こっている。
人文系の学問に携わる私にとって今回の「仕分け」は、ただただ悲しいものであった。
それはこの事件が、わかっていながら目をそらしてきた現実を目の前につきつけるものだったからである。
そしてこの個人的な悲しみと、突きつけられた問題とを明確に跡付けることは、職業として「学」に携わりたいと願う者がなすべきことの一端を示すことにもなる、と考える。
「模範解答」の詭弁
今回の「事件」に対する反応の代表的なものは、
「基礎科学研究は確かに経済的繁栄を可能にし、国益に資するものであるから、今回の事業仕分けは拙速であった可能性がある。しかし科学者は説明を怠ってきた点で責任がある」
というものである。
基礎科学研究の必要性を「経済的繁栄」の視点から訴えながらも、科学者の説明責任を指摘する。いわば「けんか両成敗」的なまとめ。
自民党時代の「科学技術立国」ビジョンに即した「模範解答」でもあろう。
しかしこの「模範解答」は欺瞞である、あるいは少なくとも「学」としての「科学」の本来の役割に立脚した議論とはなっていない。
「科学」が「学」をこととする限り、科学の重要性を訴えるために「経済的繁栄の手段である」ことを持ち出すことは、(いかに予算調達に必要であろうとも)詭弁にすぎないのである。
たしかに基礎科学研究は国益に、すなわち、わが国の経済的発展に貢献してきた。そしてそれは、基礎研究の成果が技術へと応用されたことで可能となったことである。この事実は否定しようがない。
「基礎」科学というその名称がすでに、「応用」科学や科学「技術」に資するものたることを表してもいよう。*1
しかし、「科学が技術へと応用されてきた」ことは、「科学が技術の手段である」ことを、あるいは「科学が経済的繁栄の手段である」ことを、意味しない。*2
それは、「たまたま役に立った」のでしかないのだ。
科学者は「経済的繁栄」を第一の目標としてきたわけではない。
科学の目的は、「知」それ自体である
全て学問は、
「万物の根源は水である」
といったギリシアのタレスに始まるとされる。
彼にとって水は、「万物の根源」であるだけでなく、私たちを包み込む宇宙=秩序そのものの根源でもあったであろう。
そして彼にとって万物の根源を思考することは、なんら実利に結びついてはいなかったであろう。
現代の基礎科学の研究者たちも、同じではないだろうか。
万物の根源、全てのものの構成要素たる原子とは、素粒子ちとは、いかなるものであるか。この広い神秘的な宇宙はどのような法則のもとに成り立っているのか。
この根源的な問いの前にあって世界と格闘する彼らが、「わが国の経済的繁栄」を念頭においているだろうか。
それは私には、ありそうもないことに思える。
「なぜ研究するのか?」という問いへの答えは、「知りたいから」以外にはありえない。
言い換えれば、「知りたい」という欲求に応えることこそが、科学に固有の価値であると言えよう。
この固有の価値を無視しては、科学の重要性は語りえない。
文化としての科学
科学には固有の価値があるのだ、それを理解せよ、と述べる主張は、あるいは保守的な「開き直り」とみなされてしまうかもしれない。
アカデミア内部にとっての価値しか考慮に入れない、学者の妄言である、と。
そんなふうに内部でしか通用しない価値観に安住してきた結果として、今回の事業仕分けがあるのだ、と。
確かに、科学者は「知」の発展のこと「だけ」考えていればいい、という発想に閉じこもるのはよくない。
「知」を応用して豊かな成果をもたらすことも人間の叡智の最たるもののひとつであるし、応用がもたらす豊かな成果を、語ることのできる者たちがもっと声を大にして発信すべきである。
科学が実際になしてきた成果が知られないまま、「無駄」と断罪される事態は防がねばならない。
しかしそれだけを主張しても、科学の魅力を、科学が持つ固有の価値を語ったことには、全くならない。
応用はあくまでも結果論にすぎない。
基礎科学への助成を「種まき」と称することもあるが、技術という実がなるか否かは、育てた後でなければわからないのである。
加えて、この論をさらに推し進めていけば、技術への応用が見込めない基礎研究は不要であることになってしまう。
科学が持つ固有の価値に全く言及せずに科学の価値を語ることは、急場しのぎの詭弁であるばかりでなく、科学を守りぬくこともできないのである。
科学の固有の価値は、人類の「知」に貢献することである。
人類の「知りたい」という普遍的な*3欲求に応えること、これが科学の真の価値なのである。
このことを忘れては、科学の価値を訴えたことにはならない。
そしてこの価値、「知」とは、ありていに言えば「文化」を成すものであろう。
基礎研究は「文化」として価値をもつのである。
そうだとすれば、基礎研究を助成することは、わが国の、ひいては人類の文化を守り育てることであることになる。
助成を「投資」と捉えるのならば、文化を守ること、これが、経済的リターンに還元されない「リターン」である。
だから今回の仕分けに私が見たのは、この文化の軽視である。
私が愛するこの「文化」の価値が全く顧慮されず、経済的リターンを問う言葉によって両断される。
それを世論が正しいことだと是認する。
防戦する側も、基礎研究がもたらしうる経済的リターンばかりを強調する。
このことが、とても、とても悲しかった。
文化への態度と科学の未来
私の悲しみの中心は、基礎研究の予算が減って研究が縮小されることにはない。
国家予算が無尽蔵ではないことぐらい理解できる。
毎年予算が増えるのが「当たり前」でないことは心すべきであろう。
だから私が問題にしたいのは、少なくともここ数年の予算ことではない。
そうではなく、文化への態度である。
政府が、民主党が、そして政治家が、国民が、文化を守り育てていく意志を持つのか否かである。
技術に寄り添うことでおこぼれをあずかるのではなく、科学固有の価値を、知ることの素晴らしさを訴えること。
そこにしか、科学の本当の未来はないのではないだろうか。