シューティングとじゃんけんの共通点:ゲームにおける「プロセス」とは何か
いつか書こう書こうと思っていたネタなのですが。きっかけになったのは、しんざきさんが昔書いてたこちらの記事。
私がソーシャルゲームをつまらないと思う理由・あるいはゲームから「プロセス」が剥ぎ取られていく、という話
ここでは、ゲームにおいて最も重要なのは「プロセス」なのに、ソーシャルゲームにはそれが欠けているのではないか、という議論がなされています。
こうした背景を見据えつつ、ここでは、ゲームにおける「プロセス」がどのような特徴を持っているか、ということについて、「行為の哲学」と呼ばれるものを踏まえると、もう少し見通しがよくなるんじゃないか、というようなことを考えてみたいと思います。これを考えていくと、ソーシャルゲーム(の一部)やスロット、あるいはじゃんけんのような非常に単純なゲームと、アクションゲームやシューティングゲームのようなより複雑なゲームの間で、どこが共通で、どこに違いがあるのか、よりすっきり論じることができるのではないかと思います。結論としては、じゃんけんのようなゲームにプロセスが「ない」というのは誤りというか言い過ぎで、切り詰められた単純なプロセスは(ある意味で当然ながら)存在している、ということが言えると思います。ただ、私はソシャゲをやったことがないので、非常に不安なのですが、gigirさんのシンデレラガールズまとめあたりを参考にしながら想像で書いております。いずれかを煽る記事ではないので炎上とかしないだろうと祈りつつ。というか見逃してください。
行為と記述:シューティングゲーム
それでは、早速本題に入りましょう。まず導入したいのは、「一つの行為には、さまざまな記述が当てはまりうる」というテーゼです。ごく単純なシューティングゲームの例を考えましょう。ボタンを押すと、弾がまっすぐに発射されます。これが的に命中すれば、的は破壊され、ステージクリアとなります。しかし外してしまうと、自機が爆発してゲームオーバーとなってしまいます。さて、このゲームのステージ1はチュートリアルを兼ねていて、的は静止した状態で自機の正面にあるとしましょう。プレイヤーは的に向けて弾を発射して、ステージ1をクリアします。さて、このとき、プレーヤーは正確には何をしたのでしょうか?
「弾を撃った」というのが、最も素直な答えでしょうか。しかしそれ以外にも、「ボタンを押した」「指を動かした」「的を破壊した」「ゲームをクリアした」といった答えが考えられます。これらの答えは、不正解なのでしょうか? 全て正解である、というのが、ドナルド・デイヴィドソンという哲学者が与えた回答です。「弾を撃った」「ボタンを押した」「指を動かした」等々は、全て同じ一つの行為に与えられたさまざまな記述、つまり同じことの言い換えにすぎない。だから、これらの全てが正解でよい。こう、デイヴィドソンは考えました。
デイヴィドソンは、「行為・理由・原因」で、以下のように書いています。
私は、スイッチを入れ、明かりをつけ、部屋を明るくする。私はまた、自分の知らないうちに、家に人がいるのだという警告を空き巣に与えている。このとき、私は四つのことをする必要はない。ただ一つのことをすればよいのであって、その一つのことに四つの記述が与えられたにすぎない。(『行為と出来事』、服部・柴田訳、勁草書房、1990年、4ページ)
ここで、「スイッチを入れる」「明かりをつける」等々が、「ボタンを押す」「的を破壊する」等々に対応することは明白ですね。これが、「一つの行為には、さまざまな記述が当てはまりうる」というテーゼです。
意図と記述:シューティングゲーム2
この考え方を踏まえて、別の場面について考えましょう。さきほどのゲームのステージ2です。ステージ2では、的は高速で左右に動いているとしましょう。いま、プレイヤーは弾を発射したのですが、タイミングが悪く、狙いを外してしまいました。自機は爆発し、ゲームオーバーになってしまいます。このとき、プレイヤーは何をしたのでしょうか?
今回も、プレイヤーがしたことに関して、様々な記述が可能です。「弾を撃った」「ボタンを押した」のほか、「的を外した」「自機を爆発させた」「ゲームに負けた」等々の記述が、この場合の一つの行為にあてはまります。ここまでは、さきほどの、ゲームクリアの場合と同じです。
さて、ここで、もう一つ問いを追加しましょう。それは、「プレイヤーが、意図的にやったことは何か?」という問いです。ステージ1をクリアしたときには、全てはプレイヤーが意図的にやったことでした。プレイヤーは、意図的に指を動かし、意図的にボタンを押し、意図的に弾を発射し、意図的に的を破壊し、意図的にゲームをクリアしました。それでは、ステージ2で失敗したときはどうでしょうか。
ステージ2では、プレイヤーは、意図的に指を動かし、意図的にボタンを押し、意図的に弾を発射しました。しかし、「意図的に」をつけてもうまくいくのは、ここまでです。プレイヤーは、まじめにプレイしていたならば、意図的に的を外したわけではないでしょうし、意図的に自機を爆発させたわけではないでしょうし、意図的にゲームに失敗したわけでもないでしょう。
このことは、一つの行為にあてはまる様々な記述の中には、『意図的に』をつけてもうまくいくものと、『意図的に』をつけるとうまくいかなくなるものがある、ということを示しています。デイヴィドソンはこのことを逆側から、すなわち、「意図的に」という副詞は、行為そのものではなく、行為の記述に関わる、という仕方で述べています*1。
行為としてのゲームのプロセス
さて、これまでのことを踏まえて、ゲームにおけるプロセスとはどういうものか、考えてみましょう。これまで挙げてきたシューティングゲームの例でいくと、ステージ2は、かなり単純ではありますが、シューティングゲームの基本形であると言えるでしょう。しかし、ステージ1は、改めて考えてみると、果たしてゲームと言えるのでしょうか。もっとざっくり言えば、止まった的に、確実に照準の会う弾を発車することは、果たして楽しいのでしょうか? 楽しくなさそうじゃないですか?
この違いの理由はどこにあるのでしょうか。それは、意図と結果がずれてしまう可能性にあるように思います。ともすると、「的を外す」という、そのもとで意図的でない記述が、自分の行為にあてはまってしまう。それをなんとか回避し、「的に当てる」という、意図的な記述が自分の行為にあてはまるように努力する。努力した上で、うまく意図した結果になるかどうかを楽しむ。これは、ある型のゲームの最大の特徴であるように思えます。(ただ、ドラクエのようなRPGの楽しみは、この型にあてはまらない場合があるんじゃないかと思います。でもそれはまた別の話。)
この、意図したことと結果が符合したりずれたりするというそのことを楽しむ、というのが、ある種のゲームの楽しみの基本形なのではないでしょうか。シューティングゲームについては既に示しました。もちろん的の数が増えたり、敵の弾を避けたり、アイテムが出現したりして、要素が増えていく、ということはあるでしょう。しかし、自機が破壊されないようにしながら、的を破壊することを目指し、この意図がうまく達成できたりできなかったりすることを楽しむ、という基本的なところは変わらないように思います。
では、スーパーマリオのようなアクションゲームではどうでしょうか。マリオをプレイしていてクリボーを踏むときには、指を動かし、Aボタンを押し、マリオをジャンプさせ、クリボーの上に着地させ、クリボーを踏みます。これらすべての記述が意図どおりにすすむように頑張るわけです。しかし、初心者にありがちなことですが、クリボーを踏もうとして、飛距離が足りずにクリボーの目の前に着地してしまい、死んでしまうということがありえます。この場合は、「マリオをジャンプさせる」という記述のもとでは意図的であったにもかかわらず、「クリボーの目の前に着地する」という記述のもとでは意図的ではなかったと言えるでしょう。ここでも、意図に関連付けられる記述と、関連付けられない記述の「ずれ」が生じる可能性が、「ゲーム性」と呼びたくなるものの基礎になっています。
さて、それでは、ソーシャルゲームで勝負を挑む、あるいはガチャを引く、という場面はどうでしょうか。これは、ステージ1のような「ゲームもどき」と、ステージ2のような「真正のゲーム」のどちらに近いでしょうか? 私はこれは、後者に近いように思います。 実はここでも、極限まで切り詰めてはいますが、単にページをめくったり、金を払ってカードを買うのとは違って、件の「ずれ」の可能性が、巧みに作り出されているからです。つまり、「対戦を挑む」という記述のもとでは意図的なのに、「負ける勝負をする」という記述のもとでは意図的ではないとか、「レアカードを引く」という記述のもとでは意図的なのに、「しょうもないカードを引く」という記述のもとでは意図的ではないとか、等々の「ずれ」の可能性が、コンパクトに創り出されています。じゃんけんがゲームたりうるのも同じ仕組ですね。パーを出すことが、相手に勝つことであるかどうかはわからない、という。
というわけで、ソーシャルゲームも、シューティングやアクションのようなゲームも記述のずれの可能性を作り出す、という基本的な構造を共有しています。そのうえで違いを強調するならば、この記述の一致が、一方は運によって、他方は熟練によって可能になる、という点にあるといえるでしょう。つまりこのラインで論じるならば、プロセスの不在よりむしろ、運要素とテクニック要素のバランス、という(おそらくは)古典的な論点に帰着するのではないでしょうか。
ただし、育成要素のあるゲームの場合、これに収まらない部分が出てくることは事実です。これについては、途中でちょっとだけ言及しましたが、ドラクエの面白さがどこにあるのか、ということを切り口に、別ルートから考えてみる必要があるように思います。いずれにせよ、今回はここまでということで。
※追記:続編書きました。
ドラクエと高橋みなみ、あるいは北九州予備校:ゲームにおける「プロセス」とは何か(2) - 長椅子と本棚
文献紹介
せっかくAmazonリンク用のボタンがあるので、引用した本については貼っておきますね。

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▲デイヴィドソン『行為と出来事』。行為論に興味がある人なら必読。この記事(と注)で引用した「行為・理由・原因」と「行為文の論理形式」が収められています。

- 作者: P.F.ストローソン,ピーター・ヴァンインワーゲン,ドナルドデイヴィドソン,マイケルブラットマン,G.E.M.アンスコム,ハリー・G.フランクファート,門脇俊介,野矢茂樹,P.F. Strawson,G.E.M. Anscombe,Harry G. Frankfurt,Donald Davidson,Peter van Inwagen,Michael Bratman,法野谷俊哉,早川正祐,河島一郎,竹内聖一,三ツ野陽介,星川道人,近藤智彦,小池翔一
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*1:ちょっと専門知識がないと意味不明な引用になってしまうので本文には引用しませんでしたが、デイヴィドソンは、例えば「行為文の論理形式」という論文で、「意図的行為というものは行為の一つのクラスではない。あるいは、多少違った表現で論点を示すならば、何かを意図的に行うことはそれを行う仕方ではないのである。何かを意図的に行ったと述べることは、その行為をその行為者の信念や態度と特別な関係をもつ仕方で記述することであり、おそらくは、さらにその行為をそうした信念や態度によって引き起こされたものとして記述することにほかならない」と述べています(『行為と出来事』、157ページ)。「意図的行為というものは行為の一つのクラスではない」というのは、「意図的に」という副詞が、準内包的文脈、すなわち、「意図的に」が含まれる文は、行為の存在は含意するけれども、真偽は記述に依存して決まる、という意味論的な性格を持つことを示しています。さらにその文を真にするような記述とは何かというと、デイヴィドソンが主張する「行為の因果説」という立場を前提し、かつ彼の因果論を前提すれば、行為者の信念と賛成的態度を原因とし、行為を結果とするような何らかの法則の存在を信ずべき理由があるような場合である、ということになります。といってもこの説明でもほとんど意味不明だと思うので、もっと知りたい方はサイモン・エヴニン『デイヴィドソン』、宮島昭二訳、勁草書房、1996年の第2章と第3章あたりを読んでみてください。