論点整理:実名報道
実名報道の是非についての議論が白熱の様相を呈しておりますが、炎上案件の例に漏れず、議論の中心がはっきりしないままに論点が拡散しそうな感じになって参りましたね。というわけで、個人的なメモも兼ねつつ、ちょっと論点を整理してみたいなと思います。
これまでのあらすじ
ざっくりした経緯のまとめ。まず事の発端となった遺族関係者・本白水氏と朝日新聞の諍い。この問題に関しては、本白水さんのおっしゃることが事実であるならば、朝日新聞を擁護する余地はなさそうですね。言語道断です。小賢しい話に入る前に、ここのところは、最初に確認し、強調しておきたいと思います。しかし、朝日新聞を擁護する論調の中から、それでも実名報道をすべきではないのか、という議論が出てきました。このことを発端に、そもそも実名を公表し、遺族の声を報道することに義はあるのか否か、という、議論が開始されます。ここから、事は匿名・顕名のマスコミ関係者と、その他有名・無名の方々を巻き込んだ一大論争へと発展してきています。もう少し知りたければ、とりあえずこのまとめあたりを見ておけば問題ないでしょう。
おおまかな方針
ここで、この記事でこの問題を整理するときの、おおまかな方針を示しておきます。それは、「遺族に取材をすること」に関わる議論と、「実名を報道すること」に関わる議論とを、明確に区別して扱うべきだ、というものです。ここが明確に意識されることで、一連の論争が二つの中心点を持つものであるということがわかります。
遺族への取材のあり方
さて、まずは二つあると言ったうちの最初の論点、「遺族への取材」です。ここではマスコミへの批判を先に見て、次にマスコミの側からの反論を検討していきたいと思います。
まず、マスコミへの批判です。これは主に、あまりに激しい(と一般に思われている)取材に対する批判です。「メディアスクラム」という言葉で形容されていることが多いようです(「メディアスクラム」という言葉自体は半ばネットスラングなのではないかと思うので、自分ではあまり使いたくはないのですが*1)。WIkipediaの「メディアスクラム」の項にある(いささか中立性を欠いている気がしますが)記述なんかを念頭におけばよいのでしょう。皆さんイメージはあるでしょうからいちいち細かく説明はしませんが、要は「ただでさえかわいそうな遺族が、取材でさらに迷惑するのはけしからん」ということですね。
この点に関して、マスコミ関係者を始めとする数名の方から擁護論が提示されました。このまとめとかこの記事あたりですね。そこで強調されたのは、「遺族への取材は、面白半分でやってるわけじゃない。取材する側も誠意を尽くすし、遺族の痛みだって理解している」という論調です。これはこれで、嘘ではないのだろうと思います。取材に応じて故人の話をすることが、一種のグリーフケア(悲嘆へのケア)として機能する場合すらあるだろうということは、容易に想像できます。
しかし、この論点は、佐々木俊尚氏からカウンターを受けています。まとめると、「たしかに事件後しばらく経ってからの取材は、誠意を持って行われる。しかし、事件直後の取材においては度が過ぎた行為も散見される」と。もはやこうなると、事の真偽はマスコミ関係者でもなく、取材を受けたこともない私たちには知り得ないことです。いずれを信じるのか、という話になってしまいます。
というのが、これまでの状況ですが、この論点に関しては、今回マスコミの側は少し分が悪いように思えます。なぜなら、事の発端が、「朝日新聞記者が約束を反故にした」というものだからです。言われていることが事実だと仮定すれば、仮に実名報道に正義があるとしても、少なくとも約束を反故にして報道するのではなく、きちんと説得してお互い納得ずくで報道すべきだったし、そうでないなら約束なんかせずに、別ルートで情報を得る努力をすべきだった、そう考えるのが当然であるように思えます。そうだとすると、この件はまさに「常識で許される範囲を逸脱した取材行動が存在する」ということの証拠となっている、ということになります。したがって、この取材方法という点に関してマスコミを擁護するのであれば、この朝日新聞の行為を弁明せねばならないことになります。「私が取材したときは云々」という論拠は無効です。「そうでない場合も多いということは強調したいが、しかし今回に関しては問題があったと認めざるをえない」というところを落とし所にせざるを得ないように思います(もちろん、事実認定に関して違いがあれば話は変わってきますが)。
ところで、ここで思い起こしていただきたいのは、これまでの議論は、「実名報道をすべきか否か」という論点とは全く関係がない、ということです。問題になっているのは、遺族への取材は一体どのような態度で行われているのか、この一点です。それゆえ、この件に関してマスコミの側を擁護するのは難しいように思われるにもかかわらず、これを理由に、「だから実名報道はいけない」という結論を導くことはできません。このような議論は、論点のすり替えでしかありません。
実名報道の是非
論点のおさらい
第二の論点、「実名報道の是非」に移りましょう。この論点ははじめ、朝日新聞の問題に関してマスコミを擁護するという文脈で提示されました。このことが、問題をややこしくしています。なぜなら、この文脈で実名報道それ自体の是非を云々することは、論点のすり替えにほかならないからです。
なぜこれが論点のすり替えであるのか、これを説明しておきましょう。第一の論点の最後のところで、過熱取材の有無と、実名報道の是非とは論理的に関係がない、それゆえ、仮に今回の問題に関して朝日新聞に落ち度があったとしても、それは実名報道が正義に悖るということの理由にはならない、ということを強調しました。このことは、逆の論点にも適用可能です。つまり、仮に実名報道に大義があったとしても、そのことは、朝日新聞の裏切りを正当化する理由にはなりません。擁護困難な朝日新聞の裏切りを擁護するために、(おそらくは無自覚に)関係ない論点が持ち出された、これが、そもそも問題が複雑化することになった発端なのです。
それでは、実名報道それ自体の是非はどのように考えるべきか。この点に関して、私は実は実名報道を肯定する側に傾き始めています。(ただし、急いでしつこく付け加えますが、発端となった朝日新聞の裏切り行為そのものを正当化することは不可能だと思います。)ともあれ、これについて、否定・肯定両者の主張を戦わせながら考えてみましょう。
政府や日揮の意向に従うべきか
否定側の根拠として第一に、「日揮や政府が公表しないこととしたから」というものがありえるように思います。しかし実はこの根拠は、真っ先に否定されるべきものです。この点に関しては、木村正人氏が奥田良胤氏のレポートを引用しながら主張していることが、的を射ているように思えます。すなわち、発表を匿名にすることで、事実そのものが隠蔽・歪曲されるおそれがある、というものです。今回の事件は、政府や日揮の側に何らかの落ち度がありえた、ということを完全に否定しさることのできないケースです(あったはずだ、と言いたいわけではありません)。このため、ある意味でマスコミから「監視」を受ける側である政府と日揮が情報を公開しないということに関して、マスコミがそれを批判するのは、正当なことであるように思われるのです。
遺族の意見を尊重すべきか
これとは別に、第二の理由として、「遺族がそれに同意していないから」というものが挙げられるかもしれません。これについては、慎重に議論を進める必要があるでしょう。朝日新聞の裏切り問題の本質が見誤られ、それによって、誤った正当化がなされるおそれがあるからです。この問題において、明白な、擁護しようのないマスコミの落ち度は、「記者が公表しないことを条件に情報を得た」にも関わらず公表した、というところにあります。つまり、ここで問題になっているのは、遺族の同意がなかったことではなく、情報提供者との約束が反故にされたということなのです。それゆえ、遺族の同意が必要か否かということそれ自体に関しては、独立に議論が可能であるように思えます。
これを考えるため、架空の例ですが、遺族が公表を希望してないにもかかわらず、マスコミは遺族とは全く別のルートから情報を得て、しかも情報提供者が情報の公表に同意し、あるいは公表を希望した場合について考えてみましょう。この場合、マスコミはどのように動くのが正しいのでしょうか。このような場合にも、遺族の同意が必要なのでしょうか。これは言い換えれば、死亡した家族の情報が、遺族のプライバシーの権利に含まれるか否か、という問題です。この問題に関して、私はそれほど自信があるわけではないのですが、ちょっと含められないのではないか、それゆえ、公表してもよいのではないかという直感を持っています。ただし、このときにいわゆる過熱取材が行われてもよいということにはもちろんなりません。あくまでも両者を切り離された問題と捉えた上で、ということです。いずれにせよこのあたりは、今回の朝日新聞の行為とは切り離して、新たに出てきた問題として、社会全体を巻き込む議論に委ねられるべきでしょう。ここで少なくとも言えることは、遺族の同意という論点を強調したいのならば、今回の朝日新聞の問題とは切り離して、プライバシー権はどこまでを範囲に含むのかという議論を展開しなければならないということです。
マスコミは数字のために「お涙頂戴」しているのか
否定側の第三の理由、それは、「マスコミは数字のために意味もないお涙頂戴的な報道をするべきではない、報道すべき問題は、北アフリカ情勢など、もっと別のところにあるはずだ」というものです。この批判は一見もっともらしく見えます。ただし、実名を報道すべきかということと、その報道をお涙頂戴的なものにしてもよいかということは同じではないので、そこはもっと慎重に議論すべきです。しかし、そうだとしても、実際になされている報道は「お涙頂戴」的なものになっているため、この問題はさしあたり無視してもよいように思えます。
しかしそれでも私はこの批判から、「マスコミは数字とカネのために暴虐の限りを尽くす存在だ」という、ある種の陰謀論の上に成り立つ批判である、という印象を拭うことができません。
ちょっとデリケートな議論になってきましたが、視点を変えて、肯定側の議論と戦わせてみましょう。この否定側の論拠は、実名報道の肯定側に立つマスコミ関係者が強調する論拠と、はっきりと対立しています。肯定側の論拠とは、「犠牲者の背景を報道することによって事件の風化を防ぐことができ、これによって根底にある問題、たとえば北アフリカのような不安定地域における日本企業の経済活動の安全をいかにして保証すべきかという問題への関心が高まり、世論に一石を投じることができる」のようなものです。このような反論に、件の否定側は、どのように再反論できるでしょうか。
まず考えられるのは、「そのような主張は正当化のための方便にすぎない」というものです。しかしこれは、反論というより言いがかりに過ぎないように思えます。「お前が言うことで、こちらのストーリーに乗らないものは全て嘘だ」と言っていることになってしまうからです。
別のパターンとして、「そのような主張は、主張を伝えるために遺族の悲痛な叫びを利用するものであり、傲慢である」という反論もあるかもしれません。しかしこの反論は、「取材で得た情報を元に、世間に広く何かを訴える」という、マスコミのあり方そのものを否定する、あまりにもラディカルなものであるように思います。取材の過程に問題があってはならないということを前提した上でのことではありますが、ここまで完全にマスコミのあり方を否定してしまうと、社会全体の損失の方が大きくなってしまうように思えます。ただしこの点に関しては、さらなる議論がありうるかもしれません。
最後にありうる反論は、「犠牲者の背景ではなく、北アフリカ情勢や安全保障に関わる専門的な問題を報道したほうが、事件に関する議論が深まるはずだ」というものです。つまり、手段の選択に関してマスコミを批判するものです。これに関しては、議論の余地がありうるかもしれません。
このように考えると、否定側が守りうる「最後の砦」として、以下の3点が残りそうです。
- 遺族のプライバシー権を広く解釈する。
- マスコミという存在そのものの公益性を否定する。
- 事件に対する議論を深める手段として、犠牲者の背景は必要ないと論じる。
逆に言うと、この3点以外を論じる批判は、論点を外してしまっているのではないかと思います。また、否定側はこれらを論じるだけでなく、隠蔽・歪曲の可能性という問題をクリアしなければなりません。これらの事情を考え合わせると、個人的には、否定側はちょっと分が悪いのではないか、という印象があります。
まとめ
当初の予定より長く、またデリケートな内容に踏み込む記事となってしまいました。ちょっと長くなりすぎたので、最後に論点を列挙しておきましょう。
- 取材の問題点に関する議論と、実名報道の是非に関わる議論は分けるべきである。
- 取材の問題点に関しては、マスコミ批判側に分がある。擁護するのであれば、別の取材の場面での事例を持ち出すのではなく、朝日新聞の裏切りそのものに対する釈明がなされる必要がある。
- 実名報道の是非に関しては、是とするマスコミの側に分がある。これに反論したいのならば、隠蔽・歪曲の可能性という問題をクリアした上で、プライバシー権の範囲の問題や、世論を喚起するというマスコミ本来の役割の公益性、あるいは、どのような報道が世論を換気するのに有効かという問題、これらの問題にかんして、より議論を深めていく必要がある。マスコミはカネと数字だけが目的だという陰謀論は、扇情的ではあるが説得的ではない。
だいたいこのくらいのことが、今の段階での私の見解です。私も最初は実名公表しないというのは画期的なよい決断だな、と感じていたのですが、そう単純な問題ではなさそうです。
*1:Wikipediaの「メディアスクラム」の項には、「同志社大学の浅野健一教授は、「メディアスクラムとは本来はジャーナリズムが団結して権力を追及する良い意味のもので、集団的過熱取材のことはメディアフレンジーと呼ぶのが正しい」としているが、こと日本で実際に現在使われている用法として見る限りでは、この2つの言葉に違いは事実上存在していない。」と書かれていますが、これはこれで「要出典」タグをつけたい感じですね。ついてないけど。