Googleに友達を奪われないために:平田オリザ『演劇入門』がくれる勇気
下の記事を読んで考えたことについて書きます。
ググレカスが僕から奪ってしまったもの - ウサギは走り、カラスは空を飛ぶ
この記事には、人に質問を前に検索することが可能になり、質問をする機会が奪われてしまった、これによって、人との交流の機会それ自体が奪われてしまったのではないか、というような内容が書かれています。しかし、これは少々目の粗い議論であるように思えます。当然のことですが、Googleの登場で、人とコミュニケーションすることが全くなくなってしまった、ということはありえません。これは、誰もが調べずに質問している、ということではなく、検索エンジンの発展によっても奪われないコミュニケーションがある、ということを示しているように思えます。それでは、それは何なのでしょうか?
話し言葉と演劇
これを考える上で非常に参考になる本が、意外に思われるかもしれませんが、平田オリザ『演劇入門』(講談社現代新書)です。タイトルの通り演劇・戯曲について、それがどのような原理のもとに構成されているかを論じた本なのですが、その中でも最も印象的な叙述が、話し言葉によるコミュニケーションの分析なのです。
なぜ演劇について書かれた本で、話し言葉の分析がなされているのでしょうか。それは、演劇・戯曲が、話し言葉によって構成されているからです。戯曲は原則的に全て話し言葉で進行しますから、戯曲について知るには、その素材たる話し言葉について知らねばならない、というわけです。そこで、平田の議論を少しだけ追いながら、「Googleは本当は何を奪ったのか?」を、考えてみたいと思います。
平田は、話し言葉を、「演説」「談話」「説得・対論」「教授・指導」「対話」「挨拶」「会話」「反応・叫び」「独り言」の9つに分類しています(『演劇入門』、p. 119、図表16)。いちいち細かい説明をすることは避けますが、これらのうち、Googleによって奪われるのは、4番めの「教授・指導」、しかも、その中でも単に知識を伝達するだけのもの、であるように思えます。逆に言うと、仮に検索エンジンがこの「教授・指導」を奪ったとしても、我々にはまだ8種類の話し言葉が残される、ということです。
これらの中でも、特に我々の実際のコミュニケーションで重要な役割を果たしているのは、3番めの「説得・対論」、5番めの「対話」7番目の「会話」です。このうち、「説得・対論」は、つまりは議論のことで、確かに結論の定まらない内容については、Googleに聞いて解決、ということはないのでこれは残るでしょう。しかし、これだけを強調したのではまだ足りません。これ以外に残る、「対話」と「会話」こそが、私たちのコミュニケーションにおいても最も中心的な役割を果たしているからです。
対話と会話
平田は、この「対話」と「会話」の区別について、非常に興味深い議論を展開しています。少し長くなりますが、議論を追ってみましょう。
注意しなければならないのは、「対話」と「会話」の違いである。あらかじめ、簡単に定義づけておくと、「対話」(dialogue)とは、他人と交わす新たな情報交換や交流のことである。他人といっても、必ずしも初対面である必要はない。お互いに相手のことをよく知らない、未知の人物という程度の意味である。
一方、「会話」(conversation)とは、すでに知り合っている者同士の楽しいお喋りのことである。家族、職場、学校での、いわゆる「日常会話」がこれにあたる。
英語では厳然と区別される二つの単語が、日本語では非常に曖昧な扱い方をされる。ここに、戯曲を書く上での、一つの大きな落とし穴がある。講座に集う多くの生徒は、「対話」ではなく、「会話」を書いてしまうのだ。だが、「会話」だけでは、戯曲は成立しないのである。(中略)
演劇においては、他者=観客に、物語の進行をスムーズに伝えるためには、絶対的他者である観客に近い存在、すなわち外部の人間を登場させ、そこに「対話」を出現させなくてはならないのだ。
ここでも続けて『東京物語』を例に挙げよう。映画の冒頭、笠智衆と東山千栄子演ずる老夫婦が、子供達を訪ねて上京する準備をしているシーンが有る。
ここでは、まず、空気枕をどちらの鞄に入れたかといった、たわいもない「会話」が繰り返される。
とみ「空気枕、そっちへ這いりやんしたか」
周吉「空気枕、お前に頼んだじゃないか」
とみ「ありやんしぇんよ、こっちにゃ」
と、これでは一向にらちがあかない。するとそこに、他林とよこ演ずる隣人(細君)が通りかかって、「対話」が始まる。
細君「お早うござんす」
とみ「ああ、お早う」
細君「今日お発ちですか」
とみ「え、昼過ぎの汽車で」
細君「そうですか」
周吉「まァ今の中に子供達にも会っとこうと思いましてなあ……」
細君「お楽しみですなあ、東京じゃ皆さんお待ち兼ねでしょうで」
周吉「いやァ、暫らく留守にしますんで、よろしくどうぞ」
細君「えっえっ、ごゆっくりと――立派な息子さんや娘さんがいなさって結構ですなァ。ほんとにお幸せでさあ」
周吉「いやァ、どんなもんですか」
(前出『小津安二郎作品集IV』)
と、このような「対話」を通じて、観客は一挙に事態を理解するのだ。この短い対話から、
二人が東京への旅行の準備をしていること。
東京では、出世した息子や娘が暮らしているらしいこと。
多少長い旅になりそうだが、それを二人は楽しみにしている様子。
といったところがうかがえる。「空気枕」の会話とは全く違う、急な展開である。
(平田オリザ『演劇入門』、pp. 121-4)
このように、平田は話し言葉の中でも、対話と会話を区別できることを鮮やかに指摘しています。
それでは、なぜこれらの「対話」と「会話」は、検索技術の発展に負けずに残り続けると言えるのでしょうか。まず、会話から考えてみます。これは、基本的には情報の授受を伴わない、たわいないやり取りです。そうだとすると、検索とはおよそ関係なく、存続すると言えるでしょう。一見情報を伝達しているように見えながら、実際には情報の内容なんてどうでもよいガールズトークなどは、この最も代表的なものだと言えるように思います。
他方、対話についてはどうでしょうか。これは、情報の不均衡によって生じるという点で、Googleによって最も奪われやすいものであるようにも思えます。しかし、そうではないのです。注目すべきは、対話においては二人がある意味で他人同士である、という前提があることです。
ググレカス、半年ROMれ、の意味
対話する二人は他人同士である。このことを念頭にながら、言及先の記事でコミュニケーションを奪う常套句として登場する「ググレカス」という表現がどのような効果を狙ったものかを考えてみましょう。ちょっと極端すぎる例ですが、iPhoneについてのスレッドで「iPhoneってどの会社が出してるんですか?」という質問をしたら、「ググレカス」と追い返されてしまうでしょう。これは、なぜなのでしょうか?
これを考えるときに手がかりになるのは、「ググレカス」と「半年ROMれ」の類似性です。「半年ROMれ」というのは、ざっくり言えば、「このスレの過去ログをちゃんと読んでない奴は、俺達の会話に入ってきてかき乱すな」ということを意味する表現でしょう。ここで、今の論点に関して重要なのは「俺達の会話に入ってきて」というニュアンスです。つまり、この言葉が発せられる空間においては、「全員が内輪であって、よそ者、他人は存在しない」ということが前提になっているのです。根本的なところを共有していない他人は、初めからお呼びでない、ということです。このような場面では、たしかに、対話が成立する余地はありません。
しかしこのことは裏を返せば、「ググレカス」という表現は、限られた「よそ者おことわり」場面で用いられるものである、ということです。2chでも、たとえば「アイドルマスター初心者用スレッド」で「春香ってどんな娘か教えて下さい」と質問すれば、それはもう懇切丁寧な解答・勧誘が返ってくるはずです。なぜなら、「初心者用スレッド」は、「よそ者歓迎」の場所だからです。
話をリアルのコミュニケーションに移して考えてみましょう。現実において「ググレカス」と言われてしまいそうな場面というのは、知らないことを質問する場面ではありません。そうではなくて、場違いなところ、例えば知らない会社の忘年会に紛れ込んでしまったような場合なのです。よそ者が勝手に企業の忘年会に紛れ込んで「みなさんはどういったお仕事をされているんですか?」などと質問をしたら追い返される。このような場合を想定するのがよいように思えます。
逆に言えば、それ以外の多くの場合において、「対話」は成立します。上司、つまり、自分とは違う、上層のコミュニティとの繋がりを持つものに、質問をする場合。買い物に行って商品について尋ねるば場合。企業のような閉鎖的なコミュニティを前提しない、友達同士の飲み会で、初対面の相手と話す場合。このような場合は、自分が相手の情報を持たないことを恥じて、質問することを躊躇することはありません。むしろ、情報の不均衡を利用して、コミュニケーションすることが可能になります。互いの間に情報の不均衡が前提されている場面では、検索せずに聞くことは、正当な流儀なのです。
「要は、勇気がないんでしょ?」
このように考えてくると、相手と同じだけの情報を確保することは、「ググレカス」と言われないためには、対して重要ではない、ということがわかります。むしろ重要なのは、これは仲間内の会話の場面なのか、議論をしているのか、よそ者が許容される対話の場面なのか、それとも、いま自分は招かれざるよそ者なのか、等々と、いま自分がどのような場面にいるのかを正しく把握することです。これができれば、自分が相手にとってよそ者であることが許容されている「対話」の場面では、検索せずに質問しても何も問題ないのです。
とはいえ、それでも対話できない、検索してしまう、という(私のような)人もいるでしょう。しかしそれは、Google関係ない、単なる人見知りです。そういう人にかけるべき言葉は一つ。

- 作者: 平田オリザ
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