長椅子と本棚2

ダイアリーから移行しました。

「良い本」には必ず間違ったことが書かれている

 「良い本」とは、どのような本なのでしょうか。読んでいて面白い本? 真実が書かれている本? この問題に関する、興味深い試行錯誤を見かけたので引用してみます。

 ここで指し示す文章とは、まともな本に書かれている文章のことだ。いわゆる「悪書」は相手にしない。間違いを書いてある本。それが悪書の定義であるかどうかはわか〔ら〕ないが、ひとまず悪書ではない本として成立している本の文章を指す。もっと限定するならば、「価値のあることが書かれている本の文章」似た表現を使うならば「本質をついていることが書かれている本の文章」のことだ。
 わたしは価値のあることが書かれている本、本質をついている本を出来るだけ読むよう心がけている。そういった本はしばしば「古典」と呼ばれる。
文章、理解、読解力、リテラシー、そしてアニメファン - もっと最高の夢を【第二期】

 上の記事は、同じ読むならちゃんと考えて書かれた文章を読もう、という主旨のものです。読むに値する文章とそうでない文章がある、という全体の論旨には賛成します。(ただ、それがよく考えて書かれたか否かで決まるかと言うと、反例は結構見つかってしまうかもしれません。今日はそれについては論じませんが。)その中で、上の箇所は、「まともな本」(私が用いた言い方では「良い本」)とは、「価値のあることが書かれている本」、「本質をついている本」としての「古典」だと述べた箇所です。これに対して、「それが定義であるかどうかはわか〔ら〕ない」としながらも、「悪書」について、さしあたり、「間違いを書いてある本」だとされています。

 たしかに、良い本には、価値のあることが書かれているでしょう。また、普通は、間違いを好んで読むひとはいないようにも思われます。しかし、実はこの対比には大きな問題があります。間違いを犯すことなくして、「価値のあること」を書くことはできないからです。

 簡単な例を挙げましょう。以下の二つの例文を読み比べてみてください。

  1. 如月千早はかわいい。
  2. 如月千早がかわいいのは、彼女が不屈の精神を持っているからだ。

 どちらがより価値のある文でしょうか。どちらかといえば、二番目ではないでしょうか。それでは、どちらがより間違いのない文章でしょうか。それは、一番目です。

 如月千早がかわいいということは、彼女をひと目見ればほぼ自明です。それゆえ、この文には間違いがありません。しかし、その自明さゆえに、この文にはほとんど意味がありません。いわゆる「小学生なみの感想」になってしまっています。一方、後者は、前者より一歩踏み込んで、如月千早の可愛さについて説明を試みています。この試みのゆえに、後者は前者より価値がある。(つまり、多くの場合、単なるデータよりその解釈、考察の方にこそ価値がある、ということですね。)しかしながら、この同じ試みのゆえに、後者は、間違いの可能性を含んでしまっています。「小学生並みの感想」からさらに一歩踏み込むことによって、「彼女の可愛さの本質は、不屈の精神にあるのではない。ときおり見せる笑顔にあるのだ」というような反論の可能性を、同時に引き受けてしまっているのです。

 このように考えると、「本質をついた、価値のある本」とは、間違う可能性を犯しながら、それでも何かを論じようとする本、だということになるでしょう。この性質のゆえに、「古典」に書いてあることは、実は間違いだらけであることが多いのです。古典の価値は、そのような間違いを恐れない、果敢な挑戦にこそあるのだ、と言っても過言ではありません。古典にはたしかに、このブログのような、凡百のネット上の文章にはない価値があります。しかし、古典にはつねに真実が書いてある、と考えてしまうと、それはとんでもない間違いにつながることになります。

 このことは、古典を読むときや、一般に何らかの主張を含む、いわゆる論説文を読むときのための、重要な教訓を与えてくれます。それは、良い本に書いてあることは、その本が良い本であればあるほど、鵜呑みにしてはならない、ということです。筆者はどのような理由で、どのような主張をしていて、その議論に納得できるのか、できないのか。常に、自分で判断しながら読まなければなりません。古典を、いや一般に、本を読むことの本当の難しさと、本当の楽しみも、そこにあります。