長椅子と本棚2

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「できない人」にはやさしくしよう、あと世のお母さんはえらい

二つの「できない人」の話

 今日たまたま、二つの「できない人」に関する話を目にした。

 ひとつはこれだ。

繁忙期には、やってもやっても仕事が終わらない。早出残業したいから、子供の送り迎えを頼めない?と頼むと、どういう業務がどうして終わらないのか、と聞かれる。あれこれ説明すると、
「そうか、君がボトルネックになって、全体の業務が滞っているんだね。じゃあ仕方ないね、明日は僕がみるよ。でも、必ず明日で終わらせなよ」と言われる。送り迎えが面倒だからではなく、社会人としてこなすべき仕事をしなさい、ということだ。その通りで、私が終わらなくて後ろが詰まっているのだが、夫の言うことは実に正しいのだが、正しすぎて辛い。

たしかにこれは辛い。

 しかし、この記事には、救いとなるような温かいコメントがたくさんついている。たとえばtamu2822さんの以下のコメントがそうだ。

読み終わってため息が出た.......会社では「正しい・正しくない」が大事だけど、生活は「心地いい」かどうかを基準にしたほうが幸せになれると思う。

 以上が一つ目の記事である。一方、もう一つの「できない人」の話はこれだ。

http://twitter.com/cheripon/status/234096886422851584:twitter

正確には、このツイートのパクリツイートのRTを見た。このツイート自体は、昨年夏以来ものすごい回数RTされているようだ。

両者の違いはどこにある?

 前者は、うまく仕事をこなすことができないつらさに旦那が共感してくれず、手伝ってはくれるけれども辛い、という内容だった。これにはあたたかいコメントがついている。他方、後者では、子育てが下手な親が上手な親と比較され、罵倒されている。

 しかし、ゆっくり考えてみてほしい。慰められている増田と、罵倒されている親とは、実はそれほど違わない状況に置かれているのではないだろうか。子育てというのは、私はやったことがないが、想像するだけでも大変な仕事である。いつもいつも余裕を持って、優しく子どもの相手をしてあげられるわけではないだろう。また、人には向き不向きというものがある。そもそもそういうことが苦手な人だっているだろう。構造は、仕事が苦手で自分がボトルネックになってしまう場合と、それほど変わらない。

 それなのに前者は慰められ、後者は罵倒される。この違いがどこにあるのかといえば、前者は自分の気持を文章にし、皆がそれを知ることができたというところであろう。気持ちさえわかれば、共感したり同情したり励ましたりできる。しかし、その同じ人達が、何を考えているかわからない電車の親子のこととなると舌打ちし、罵倒する。もう少し想像力を働かせるだけで、優しくなれるのに。

 もちろんこう書くことはそれ自身「ブーメラン」的で、人にやさしくできない人にもそれなりの事情があるのかもしれない。そういう時は仕方ないので、余裕があるひとは、余裕があるときには、やさしくしましょう。

お母さんはえらい

 ところで、親でない私の、子育ての辛さに関するイメージは、金原ひとみの小説『マザーズ』に多くを負っている。蛇足かもしれないが、少し紹介してみたい。なお、ここまでは、人にやさしく出来る方がいいよね、という話、ここからは、特に子どもをつれたお父さん・お母さんにはやさしくしたいね、という話である。平たく言うと議論がうまくつながってないので注意してほしい。

 『マザーズ』は小説としても普通におもしろいのだが、読むだけで、世の中の母親に対する見方が変わり、無条件で尊敬の念を強くするとともに、寛容になれる本でもある。親子と恋愛を描いた小説でありながら、「親学」なんて恐れ多くて言えなくなる社会派小説でもある。

 この小説の主人公は、ユカ、五月、涼子の三人の母親たちである。ユカはいかにも金原ひとみ的な主人公で、職業は作家。子育ての辛さから逃避してクスリをキメちゃったりとかする生活。夫とは別居。五月は産休明けのモデル。待澤という男と不倫をし、新たな子どもを授かる。涼子は専業主婦。良い母親になろうと努力するが、最後には子どもを虐待してしまう。

 よくできているところの一つは、母親として最も優等生的に努力していた涼子が虐待に至ってしまうという筋書きだ。涼子が初めて虐待に至ってしまう場面を引用してみよう。

 母乳を飲みながら既にうとうとしていた一弥の瞼がゆらゆらと閉じ、ほっと息をついた次の瞬間、静かな空気をえぐるような鋭い鳴き声がして、私は心臓をわしづかみにされたようにぴくりと体を震わせ、内臓がぞろぞろと蠢くような恐怖に頬をひきつらせた。足をばたつかせ、布団を蹴りあげながら一弥は顔を真っ赤にして泣きわめいている。涙は出ておらず、癇癪に近い声だった。どうしたの、大丈夫だよ。胸元をとんとんと叩きながら声を掛けても、一弥は何も聞こえていないように顔を左右に振った。[中略]一弥、もう寝ようよ、もう疲れたでしょ? そう言う自分の声が震えていた。仕切り直しだと自分に言い聞かせ、一弥を寝かせ隣に横になる。一弥は足で布団をはね除け壁を蹴りつけた。痛かったのか、弱まっていた鳴き声が再び力を増す。自分の鳴き声や、手足に触れるものの感触一つ一つに、どんどん興奮していっているように見える。もはや、この場でこの事態を収めることは不可能なのかもしれない。抱っこをして少し外を歩いてみようか。それともテレビを見せて気を紛らわせてやろうか。それともしばらく放っておいて様子を見ようか。
「ぎゃーーっ」
 叫び声と共に全身が震えた。叫び声は一弥ではなく私のものだった。一弥は私の声に驚いたのかぴくっと体を震わせ動きを止めた。
「ぎゃーーっ」
 喉が潰れるほど激しく長く、私は再び汚い声を上げていた。一弥はうわあっと声をあげ、私の膝によじ登った。その時感じた事のない初めての快感が、体中をじんわりと包んでいく。この子は私が恐ろしい時にも私しか頼るものがないのだ。訳のわからない感動と体が引き裂けそうなほどの興奮の中、私は再びあらん限りの力を振り絞って叫び、拳で壁を殴りつけた。一弥はびくりと震え、私の腰元に抱きついた。
金原ひとみ『マザーズ』、新潮社、pp. 120‐2)

 有無を言わさぬ、説得力とリアリティのある文章である。これを読んでしまってから、私は車に子どもを置き去りにしてパチンコに行く母親のことすら、一概に悪く思えなくなってしまった。もちろん、子どもへの愛を上手に表現しながら、健やかかつ朗らかに子育てができるなら、それに越したことはないだろう。しかし、それができずに苦しんでいる親に、もっと頑張れ、と言うことは暴力のようにも思える。

 親は親であるというだけでえらいし、頑張ってるし、尊い。まちなかで子連れのお父さん・お母さんを見つけたら、良い親かどうかの品定めなんてやめて、みんなで温かく見守りましょう。

マザーズ

マザーズ