起承転結という概念には中身がない
文章構造として「起承転結」がいいのかダメなのか、という論争がある。しかし、起承転結という概念は、そもそもそのような論争に値しない。なぜなら、論者に依って、「起承転結」という言葉に込めている意味がバラバラだからだ。
このことは、「起承転結」でぐぐって上位にくる結果を少しながめてみるだけでもわかる。たとえば、以下のnanapiの記事。
ここでは、
起=「書く文章のテーマ(小論文や感想文)に対しての自分の意見」
承=「テーマとなっている物に対しての自分なりの解釈や要約のようなもの」
転=「自分が『承』で書いたことに対しての自分がどう思ったのか、そしてそう思った理由を詳しく」
結=「『起』で述べた自分の感想に少し戻り、「『承』、『転』でこう思ったことにより自分は『起』のように思った。」といった風にまとめる」
という感じでまとめられている。
一方、昨年末の以下の記事ではどうか。
ここには、
* 起:起承転結で書くと失敗する
* 承:アメリカには5段落エッセイという方法論がある
* 転:文章は起承転結で書けばいい
* 結:実はアメリカ人も起承転結を使っている
のように、テーマを「転」にして、その逆の状態を「起」にすれば、誰でも文章は書けるようになる。起承転結は最強の文章作成ツールだ。
とある。ここでは「テーマが転、その逆が起」と言われている。そもそもこの文章には「承と結はどうなったんじゃ!」とか、「お前がテーマと呼んでるのはテーマじゃなくて結論じゃ!」とかいろいろと気持ち悪いところがあるのだが、それを措いても、上のnanapiの記事と「転」の中身が全く違うことは明らかだろう。上では、転は自分の考えの理由を書く箇所だとされていた。一方こちらでは、「転」は結論を各箇所だとされている。何でもアリである。
もう一つ見ておこう。今度は、起承転結に否定的な記事だ。
起承転結には2つの問題点があります。ひとつはなんと言っても「結」が最後にくることです。最後まで聞かないと、何を言いたいのかはっきりしないことです。
もう1つは、「転」の部分です。「起」で扱う話題を紹介し、「承」で話題を展開させ、「転」で新たな視点から話題の展開を行い、「結」で結論を述べるというストーリーラインに沿った場合、まず間違いなく外国人の方は、「転」の部分で「あれっ」という顔になります。話が切られるからです。
やたら日本人と外国人という対比にあてはめて論じられているのが少々鼻につくが、それはこの際措いておこう。問題は、ここで「転」と「結」に与えられる定義だ。「転」は「新たな視点からの話題の展開」、「結」は説明なしだが、「言いたいこと」のことだと考えられるので、「結論」の意味で用いられているといって良いだろう。ここでの「転」は、一番目の記事の「転」=理由でもないし、二番目の記事の「転」=結論とも異なる。「結」も、一番目の記事とは同じかもしれないが、しかし二番目の記事では、結論は「転」のところに来るのだから、「結」が結論ということはありえない。つまりここにも齟齬がある。
以上のように、起承転結は有効か有効でないか、という議論は不毛である。ただし、これほど揺れのある「起承転結」が、文章書きのtipsとしてそもそも落第であるとは言えそうだ。tipsの価値は「感覚」で決まっているノウハウを明確化するところにあるはずなのに、「起承転結」はそれをもう一度「感覚」で解釈してやらないと意味が定まらない概念だからである。