つまらない講義は聞かなくていい
以下のツイートを見ました(via まなめはうす)。
「授業」は、字の意味の通り業(ワザ)を授けることです。 授業をするということは、相手に知識を与えようという意識が必要になります。一方で「講義」は、知識を与えることを目的とはしていません。自分の学説を論じてみたり、研究の一端を解説して、それを学生が理解しようとするのが「講義」です。
いやいやいやいやいやいやいやいや。「論じて”みたり”」とか、貴重な学生の時間を何だと思っているのでしょうか。「知識を与えることが目的ではありません」とか、いやいやいや。学生はせっかく学費払って大学来てくれてるのに、知識、与えなきゃダメでしょ。目の前で聴いてくれる学生にちゃんと内容を伝えようという気がないままに、延々としゃべり続けるなんて、お互い時間のムダです。だいいち、講義は授業の一つです。大学では授業が演習形式、講義形式等々と分かれるから、講義形式の授業を「講義」と呼ぶのです。ですから、怪しげな語源学に従うとしても、講義も「ワザを授ける」ものでなければなりません。
この世には、読まなくて良い本というものがたくさん存在します。『本を読む本』の著者、M. J. アドラーも、日本語版序文(「日本語版読者の皆さんへ」)に、
すべての本がこの本の奨めるような読みかたに値するわけではありません
と書いています(M. J. アドラー、C. V. ドーレン『本を読む本』、外山滋比古・槇未知子訳、講談社、p. 4)。それと同じで、聞かなくて良い講義というものも、残念ながらたくさん存在しています。学生のみなさん。わからない講義には出なくてもいいのです。その代わり、わかる講義をちゃんと見つけましょう。そして、そういう講義に関しては、本腰入れて課題をやりましょう(良い講義というものは、良い課題を設定してくれているものです)。
高校までは勉強だが、大学からは学問をするのだ、というのは間違いです。高校までは何を勉強するか、国からだいたい決められているのに対して、大学では何を勉強するのかを自分で決めることができるし決めなければならない、という、せいぜいそのくらいの違いです。この違いを小さく見積もり過ぎても失敗しますが、大きく見積もりすぎても同様に失敗します。学問の入り口で必要なのは、結局「勉強」して、知識を身につけることなのです。
明確な目的もないまま、よくわからない話を聞いて、好き勝手考えることは、学問ではない、ただの「学問ごっこ」です。大学は遊ぶところではありませんが、「学問ごっこ」をするところでもありません。
どうか、みなさんが、よい講義に出会えますように。