長椅子と本棚2

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「相方」呼びが気持ち悪いのは、パンチラがエロいのと同じ

 ネット上で過去何度も議論になってきた、恋人を「相方」と表現することの是非について、先週も話題になった。

 増田の主張は、以下の三行に凝縮されている。

相方派の人はどちらかというと「彼氏」「旦那」など連呼することのほうが気恥ずかしいと思っているっぽいですが、
「相方」って表現も思っているほどフラットな言葉ではないですよ。
聞いていて気恥ずかしい…

 この主張自体は、一応認めて良さそうに思う。しかし、なぜ「相方」という表現は気恥ずかしさを誘うのだろうか。

 これを考える上で示唆を与えてくれるのは、「チラリズム」である。wikipediaでは、「ちょっとだけ見えることから気づかれていなかった欲求を励起し、想像力がかき立てられる」といった効果を引き起こすもの」としてチラリズムが説明されている(パンチラ - Wikipedia)。「見えそうで見えない」ことにより、逆に興味を引かれ、想像力が掻き立てられる。この感覚が存在することは、実際にそのような(性的)嗜好を強く持つか否かにかかわらず、理解することは可能であろう。

 私は、「相方」呼びは、これと同様の効果を引き起こしていると考える。つまり、「相方」と言われると、聞き手は一瞬、話し手と「相方」がどんな関係にあるのかわからなくなる。それゆえに、興味を引かれ、どんな関係なのか想像することになる。そして、考えた結果として、「相方」が恋人ないし配偶者であることを察する。このプロセスを経ることにより、話し手の意図とは裏腹に、「相方」関係が性的な関係であることがかえって強く意識されてしまう。この構造ゆえに、「相方」の呼称はちょっとした軋轢を産んでしまうのではないだろうか。