なぜ音楽は魔法ではないのか、あるいは大森靖子さんへの愛してる.com
大森靖子さん。去年の1月ごろ、なんとなく新しい音楽が聞いてみたいと思って、ネットで紹介記事を見て、そのまま2日ぐらいぶっ通しで動画漁りまくって再生しまくって気づいたらすごいファンになっていたのでした。誰それ初めて聞いたって人はとりあえずYouTubeでMV見るといいんじゃないかな! あと今月アルバム出るから買おう!
さてさて、そんな大森さんですが、その代表曲の一つに、『音楽を捨てよ、そして音楽へ』があります。今日はこの曲から始めて、大森さんの魅力を紹介したいと思います。
この曲の動画はたくさん上がっているのですが、ここでは2013年のとてもかっこいいライブを貼り付けておきましょう。いいから見てくれ。かっこいいから。
さて、この曲の歌詞で最も印象的なのが、「音楽は、魔法ではない」というフレーズ。何度も何度も繰り返されるこの言葉には、どのような意味があるのでしょうか? なぜ、音楽は魔法ではないのでしょうか?
この記事で私が提案したいのは、この言葉には、「音楽に「魔法」という安易な言葉をあてがって分かった気になるのをやめよう」という意味が込められている、という解釈です。分かったきになるのはやめて、ちゃんと考え続けよう、というメッセージが、この曲からは感じられてならないのです。もちろん歌詞ですしひとつの解釈だけにとらわれる必要はないのでしょう。それでも、このような含みを見ることで、この曲を、そして大森靖子の音楽を、より深く味わえるのではないかと思います。そして、これを通じて、大森靖子の魅力の源泉の一つを発見することもできるはずです。
このように解釈したい最初の理由は、「枠」についての彼女の発言です。いろいろなところで関連する発言がありますが、ここではメジャーデビュー前のインタビューを引いてみましょう。「Zeppでやって、アイドルのイベントに出て、このままどんどん一般層に訴えかけていくのかなと思っていたんです。だから、今度やる企画が戸川純さんとの2マンなのは少し意外でした。新宿LOFTっていう場所も戸川純さんていう人も、どっちも所謂サブカル的な位置にあるじゃないですか」と話すインタビュアーに、大森靖子は次のようにシンプルに答えます。
どこの枠とかまじどうでもいいです。自分が魅せたいおもしろいこととか、お客さんがみたいんじゃないかってものをやってるだけです。
「どこの枠とかまじどうでもいい」という発言、まじかっこいいですね。YouTubeにあるシブカル祭での「渋谷もカルチャーもどうでもいいですからね、まじで」という発言を彷彿とさせます。うん、ただかっこいい大森靖子の動画を貼りたいだけなんだ、ごめん。
まあそれはそれとして、ここで大森靖子は、彼女自身と彼女の音楽を「枠」にはめて理解することの不毛さを指摘しています。このインタビューは数年前のものですが、この考えは現在でもあまり変わっていないようです。例えば先日、荻上チキのラジオに出演した際には、「大森さんの音楽のジャンルは何ですか」というリスナーの問いかけに、「カラオケ世代なんで、ジャンルとか考えてないです」と即答していたのが印象的でした。これらの発言からは、既存の枠にはめて分かった気になることに彼女が全く価値を見出していないということが読み取れます。これが、「音楽は魔法ではない」というフレーズに、そして、自分の目で見て耳で聞いて頭で考えよう、というメッセージに結実しているように思えるのです。
もう一つ、私の解釈を強めてくれる手がかりを挙げましょう。それは、彼女のマスコットである熊のぬいぐるみ「ナナちゃん」の特技が「処女膜を再生する魔法」だということです。(これは、「処女膜再生ステッキ」というペンライト状のグッズの元ネタにもなっています。また、『ナナちゃんの再生講座』という曲もありますが、ここで再生されているのももちろん処女膜でしょう。)しかし、なぜ、ナナちゃんが使える魔法は処女膜再生なのでしょうか? 私はここにも、枠にとらわれるのをやめよう、というメッセージを見いだせるように思います。
もう少し詳しく説明しましょう。「処女」という言葉は、1人の女性を分かった気になれるカテゴリーとして使われることがあります。しかし、よく考えれば、一度セックスしたかしないかで、1人の女性を判断することなどナンセンスでしょう。そんなつまらない枠にあてはめて判断するのはやめて、一人ひとりの人間の割り切れなさをきちんと見つめよう。どうしてもそんな膜一枚の状態が気になるのなら、いっそ魔法で再生できることにしてしまえばいい。初体験は無限にできることにしてしまえばいい。そうすれば、処女という枠にとらわれる必要がなくなって、一人ひとりの魅力をまっすぐ見つめて考えられるようになる。だから、ナナちゃんの魔法は「処女膜再生」である必要がある。このように考えられないでしょうか。
こう考えれば、上で見たインタビューでの発言と、ナナちゃんの魔法が「処女膜再生」であること、そして、「音楽は魔法ではない」という印象的なフレーズ、これらの三つは、一つの線でつながります。つまり、それらはいずれも、「分かった気になること」に対して、警鐘を発しているのです。
だからこそ、『音楽を捨てよ、そして音楽へ』は、「音楽は魔法ではない」と繰り返したあとで、最後に「でも音楽は」とだけ述べて、ぷっつりと終わるのです。「でも音楽は」の続きは何か? それを考える責任は、私たち聴き手一人ひとりに委ねられています。
大森靖子は昨年、妊娠・出産して母になりました。これからの彼女は「母親」という「枠」に当てはめて見られることもきっと増えるでしょう。しかし、そのような「枠」で理解されることは、彼女が最も避けようとしていることです。これからも彼女はきっと、その優しさで、「母親」という枠にはめることに意味なんてないんだよ、というメッセージを発し続けてくれることでしょう。